合肥の戦いで少数精鋭の部隊で孫権軍10万を打ち破った張遼よりもすごい武将が魏にいるのを皆さんご存知ですか。
その人物の名前は曹仁です。
正史三国志の作者陳寿は張遼よりも上であると記載し、数々の逸話を持った魏の将軍です。
今回は張遼よりも上位の将軍であると言われた曹仁の逸話から彼の人柄などを紹介していきたいと思います。
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青年時代に武技を鍛え、暴れまわる
曹家の人々は青年時代に武勇を磨いている人物が多くいます。例えば三国志の英雄・曹操も青年時代に弓術や馬術などを鍛えて、武技を鍛えています。
また曹操の息子・曹丕も小さい頃に剣術などを鍛えています。曹仁も曹操や曹丕と同じように若年から弓術・馬術などを学んで武技を鍛え、狩猟をしていました。
曹仁は1000人ほどの人数を集め、後漢王朝が乱れて中原に豪傑が乱立した際、暴れまわっていたそうです。その後曹仁は曹操へ仕えることになります。
戦術面で優れた才能を表す
曹仁は曹操へ仕えた後、騎兵を任されることになり、呂布・袁術、袁紹達との戦いで活躍し、曹操軍を勝利へ導き、勇名をはせることになります。曹仁は各地の戦で活躍しながら戦術眼を鍛え、曹操へアドバイスをして戦を勝利へ導いたことがありました。
曹仁がアドバイスをした戦は曹操が官渡の戦いで袁紹を倒し、河北平定戦をしていた頃の事です。曹操が官渡の戦いに勝利したころの河北はまだまだ袁紹の恩徳が残り、曹操に敵対する勢力が残っていました。
袁紹の元配下・高幹も袁紹の息子・袁尚と共に曹操へ反抗。曹操は高幹を討伐するため、彼が籠城している壺関を陥落させるため出陣します。曹仁も曹操と共に壺関を攻略する戦へ参加。曹操は壺関を包囲して幾度も攻撃を仕掛けますが中々陥落できず、月日だけがダラダラと経過してきます。
曹仁は壺関が中々陥落できない原因を考え、曹操へアドバイス。曹仁は曹操へ「城を包囲する際は必ず、敵兵が脱出できる道を作ってやることが肝要です。その理由は脱出できる道を作る事で、敵兵が籠城する意欲を失わせるためと敵兵が脱出しやすい道を示すことで、敵兵に生存できる事を教えるためです。
しかし殿は城を完全に包囲して、敵兵をせん滅する意気込みを見せています。そのため敵兵も殺されない為、必死になって抵抗しているのです。ここは一度攻撃を止めて敵兵が脱出できる道を示してやれば、城も簡単に陥落できるのではないでしょうか。」と提案。
曹操は曹仁の提案を採用。その結果、壺関は曹操軍へ降伏します。曹操は曹仁の戦術眼を誉め、長年の功績を評価し、彼へ侯の位を授与するのでした。このように曹仁は武勇だけでなく、戦術眼を兼ね備えた将軍でした。
法を順守する名将
曹仁は曹操に仕える前は各地で暴れまわった暴れ者として知られていました。ですが、曹仁は曹操に仕えた後、若い頃の暴れ者としての自分を省みて反省。その結果、曹仁は法をしっかりと順守するため、傍らに法律が記載されている条文を読んで、しっかりと法律を勉強していたそうです。
曹仁が法を順守しているエピソードが残っているので紹介しましょう。曹丕は兄弟の曹彰が鳥桓討伐戦の総大将として任命されると、曹彰へ手紙を送ります。曹丕は曹彰へ「君はすぐに暴れるから法律を遵守しなければならない。
軍の大将となって法律を順守することは曹仁将軍を見習うと良い」と戒めの手紙を送っています。このように曹仁は武勇や戦術眼に優れた人物でありながら、法律を順守する将軍として知られていました。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は曹仁の逸話から彼の事を知ってもらうため、いくつかのエピソードを紹介しました。
正史三国志に記載されている「傅子」も「曹仁は武勇に優れ古の夏育や孟賁に匹敵する勇武を持った人物だ」と紹介されています。また曹仁は昔暴れ者だったことをしっかりと反省している事から、自分の悪い所を直すことのできる人だった事がお分かりになると思います。
皆様も曹仁を見習って自分の悪い所を一つでも直すとより素晴らしい人物として、成長できることを曹仁が教えてくれていると思います。
レンも曹仁を見習って自分の悪い所を直していきたいと思います。
■参考文献 正史三国志魏書など
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