傅子とは何?正史三国志の「注」での郭嘉のエピソードとは?

2022年4月15日


 

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裴松之(歴史作家)

 

三国志」は後年に「裴松之(はいしょうし)」という人物によって「注」が付けられました。「注」とは追加の文章の事で、正史に載っていないエピソードが書かれています。

 

歴史書をつくる裴松之

 

今回の記事はその「三国志」の「注」から「郭嘉(かくか)」のエピソードと、その元ネタの「傅子(ふし)」についても見てみましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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正史「三国志」での郭嘉の業績

郭嘉を曹操に推薦する荀彧

 

郭嘉は最初、袁紹(えんしょう)に仕えることも検討しましたが、彼の人物に失望し、荀彧(じゅんいく)の推薦で曹操(そうそう)と会う事になりました。

 

郭嘉と曹操は意気投合

 

そこで二人は意気投合、曹操は

「私の大業を成就させるには彼が必要だ」

郭嘉も

「ようやく主君に巡り合えた」

とお互いに絶賛をしています。

 

郭嘉

 

その後は曹操の軍師として数々の戦に従軍しています。郭嘉は先の読める人物で、呂布(りょふ)、袁家との戦いで彼らの動きを読み、勝利に貢献しています。

 

郭嘉

 

異民族「鳥丸(うがん)」の討伐にも参加しますが、その戦いの後、38歳の若さで病死してしまいます。その死に曹操は大いに悲しんだ、といいます。

 

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三国志と異民族

 

 

 



三国志の「注」での郭嘉

主観が入りまくりな裴松之

 

426年ころ、「裴松之」という人物が正史「三国志」に「注」を付けました。これは簡潔な正史の記述に加え、その人物に対する異説などを様々な資料から引用し、三国志の記述に厚みを持たせるものでした。ただ、裴松之本人も語るように信頼できない話も収録されているようです。郭嘉については「傅子」という書物から多く引用されています。

 

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はじめての漢王朝

 

 

正史「三国志」には見られない郭嘉

郭嘉

 

「傅子」によると、郭嘉は若いころから洞察力に優れ、世の中が混乱し始めたときは身分を隠し、各地の有力者と交友し、俗世からは離れた生活を送っていました。その為、世間的には無名な存在でしたが、知識人たちの間では密かに有名な人物でした。

 

 

郭嘉

曹操が袁紹に対するアドバイスを求めた際には「公(曹操)には10の勝因があり、袁紹には10の敗因があります」と語り、それは「道・義・治・度・謀・徳・仁・明・文・武」についての二人の違いだと郭嘉は語っています。

 

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郭嘉特集

 

 

郭嘉の優れた洞察の数々

早めに劉備を暗殺しようと曹操に献策する郭嘉

 

曹操は劉備(りゅうび)を厚遇していましたが、郭嘉は劉備を警戒しており、彼を除くよう曹操に進言しました。しかし、曹操はそれを受け入れず、劉備が裏切った後は郭嘉の進言を聞かなかったことを後悔した、といいます。また、曹操がその劉備を討伐しようとした際には、多くの家臣が袁紹に背後を襲われることを警戒し、反対をしました。

 

袁紹の悪口を言う郭嘉

 

郭嘉は「袁紹は決断力が無いから大丈夫」と判断し、劉備討伐を勧めます。郭嘉の予想通り袁紹は殆ど動かず、曹操は劉備を敗走させることに成功しています。

 

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郭嘉、若くして亡くなり、曹操大いに悲しむ

曹操と郭嘉

 

郭嘉は鳥丸討伐戦のあと、38歳の若さで病死してしまいます。

「傅子」では曹操の嘆きは尋常ではなく、

「哀しいかな奉孝(ほうこう)(郭嘉の)!

痛ましいかな奉孝!

惜しいかな奉孝!」

と激しく悲しんだ、といいます。

 

郭嘉が亡くなり悲しむ曹操

 

また、「赤壁(せきへき)の戦い」で大敗した後は「郭奉孝が生きていれば、こんなことにはならなかったろうに」と悔やんでいます。

 

郭嘉が亡くなり悲しむ曹操

 

郭嘉の死は、赤壁の戦いの1年前の事でした。

 

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赤壁の戦い

 

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みうらひろし

みうらひろし

歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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