三国志の英傑、曹操、しかし彼にはコンプレックスがありました。
曹操の義理の祖父は宦官の曹騰であり、腐敗と卑賎の血筋だと揶揄されたというのです。
しかし、最近の研究では、濁流派の宦官でも、清流派の名士を推挙している事実があり、清流と濁流を明確に分離する事は難しく、当時の曹操がそこまで強いコンプレックスを持っていたとはいえないようです。逆に、曹操の祖父、曹騰の人脈遺産が孫の曹操を助けた事も分かっています。
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清流派人材を登用した曹騰
曹操の義理の祖父にあたるのが宦官の曹騰です。
年少の頃に黄門の従官になり、皇太子劉保(順帝)の学友に選ばれた事で運が向き以来、三十年の間に、安帝、順帝、沖帝、質帝と4代の皇帝に仕え中常侍を経て、大長秋という宦官最高のポストに就任します。さらに恒帝の時代には、費亭侯に封じられ特進の位を与えられました。
宦官=汚職と思われがちですが、曹騰は珍しく真面目な宦官であり、在任中には、多くの人士を推挙していました。それは、陳留の虞放、辺韶、南陽の延固、張温、弘農の張奐等ですがこの中で張温や張奐は董卓の上司にもなり、匈奴や羌、鮮卑のような異民族鎮圧で功績を挙げた西北の列将とも呼べる存在でした。後漢にとって、頭痛のタネであった西北の異民族対策に心を砕いた曹騰。
彼が皇帝のご機嫌取りや私利私欲のみではない後漢の未来まで考えた非凡な人材であった事は、この推挙した人材からも見えてくるのです。
曹騰の公正さを伝える逸話はまだあります。
益州刺史の种暠は清廉な人物であり、ある時、蜀の太守が曹騰に送った賄賂の証拠を函谷関で得て、曹騰をクビにするように皇帝に上奏しました。
しかし皇帝は「部外者の情報で信憑性に欠ける」と聞き入れませんでした。
悪徳宦官なら、この後に罪をでっち上げて种暠を失脚させますが、曹騰はこれを気にする事なく、むしろ清廉な种暠の忠勤を褒めました。种暠はその後、司徒に昇進しますが、「今日三公となれたのは、曹常侍のお陰である」と語っています。
曹騰は、自分を弾劾しようとした种暠に恨みで報いるどころか、逆に、積極的に引き立てていたのです。唯、才のみを挙げよと言い、能力があれば敵でも登用した曹操がこの宦官の祖父の影響を受けた可能性は高いでしょう。
曹操の師、橋玄と曹騰の関係
さて、時代は下り西暦155年、曹騰が養子にした曹嵩に男子曹操が生まれます。生まれつき聡明な曹操ですが、少年期は不良であり素行が改まりませんでした。宦官の孫という出自のハンデと素行の悪さ、このwハンデでは、曹操を評価する名士などいないと思われ、出世は難しいかと思われました。
そんな不良の曹操と親しく付き合い、才能を高く評価したのが橋玄です。
武帝紀によると、橋玄は曹操に
天下はまさに乱れようとしている一世に秀でた才でなければ救う事は出来ない。
天下を安寧に導ける者、それは君であろうか?
このようにベタ褒めの賛辞を送っています。橋玄はただの老人ではなく、晩年には三公の大尉まで勤めた人物です。
そればかりではなく、橋玄は曹操に対し「チミには、ポップでキッチュな名声が足りない、許劭の所へ行って人物評価を受けなさい」とアドバイス。
曹操は許劭の人物鑑定を受けて、有名な「治世の能臣乱世の奸雄」というキャッチフレーズをつけてもらい後漢末の社交界にデビューします。
しかし、どうして橋玄は見ず知らずの曹操にここまで肩入れしたのでしょう。実は、それには曹騰が関係していました。
橋玄を引き立てたのは、かつて曹嵩が引きたてた种暠だったのです。
自分の師が曹騰に受けた恩義を孫の曹操に返したというのが橋玄の曹操に対する厚遇の正体でした。
橋玄を人生の目標にした曹操
自分の師が曹騰に受けた恩義を孫の曹操に返したというと義理っぽいですが、曹操は決して祖父のコネに頼ろうと橋玄に近づいたのではありません。
もう六十歳を過ぎた橋玄の生き方を曹操は真剣に尊敬していました。
ばかりか、橋玄のような人物になるのが曹操の官僚としての目標だったのです。
橋玄はただの儒者ではなく、冒頭で紹介した西北の列将に連なる人物で特に南匈奴や鮮卑との戦いでは、対異民族政策を担う武官としては
最上位の度遼将軍にまで出世しました。
それだけではなく、橋玄は一流の儒学者であり、先祖代々礼記を研究する家柄。つまり、橋玄は文武両道の人物でした。
そしてここからが重要ですが、橋玄は儒教官僚の限界を突破した人物であり曹操が橋玄を尊敬した最大の理由なのです。
儒教の限界を超えた寛治と猛政
儒教は寛治を重視する思想で、根気よく野蛮人を教え導いて徳の力で感化しようとします。
しかし、実際問題、それはある程度の価値観や歴史を共有していないと無理があります。
実際に地方豪族と中央政府の利益調整においては、寛治は有効でした。
ですが、寛治で自発的に相手が変わるのを待つだけでは異民族統治は出来ません。土台になる文化や価値観や歴史が異なっているからです。
そこで橋玄が説いたのは、寛治と対局にある猛政の思想でした。これは、法家に近く国家に従わない者には容赦しない厳しいものであり、橋玄は異民族統治では寛治と猛政を交互に用いていたのです。
曹操は、儒教の建前だらけの放漫統治に嫌気がさしていたので、アメとムチを兼ね備える橋玄の寛治と猛政を受け入れました。曹操が済北の相になった時に土地で流行した淫祠・邪教を容赦なく破壊し腐敗官僚を上奏によって罷免したり、洛陽の北部尉の頃に霊帝お気に入りの宦官蹇碩の叔父が夜間通行禁止の禁を破った時に法に従い、即座にこれを打ち殺したのも猛政の実践かも知れません。
曹操と年齢を超えた友だった橋玄
曹操にとり橋玄は、半端者だった曹操を評価し生きる指針を与えて、許劭に紹介して名士として社交界にデビューする切っ掛けをくれた恩人でした。ここには大昔に祖父の曹騰が私情を捨て自分を弾劾した种暠を引き立てたのが大きな贈物になって作用していたのです。そればかりではなく、孫と祖父ほどに年齢が違う橋玄と曹操は、年齢を超えた強い友情に結ばれていたのです。
後年、華北を征した曹操は、亡き橋玄の故郷に立ち寄り厚く祀りました。
この時の祭文に以下のような内容があります。
昔、橋公は仰った。
私が死んだ後、もし君が私の墓に一斗の酒と一羽の鶏を捧げず素通りしたら三歩も歩まぬうちに腹を壊しても不思議に思うなよと
それがその場限りの冗談だとしても、親しい間柄でなければ、どうしてこのような事が言えるだろうか
私が、今こうして橋公の墓を祀るのは、公の霊魂の怒りを恐れてではない昔を懐かしみ、私を愛してくれた公を思い出し
その言葉を思い返して悲しみ悼むからである。
今、ここに僅かばかりの供物を捧げる、どうか受け取って欲しい
このやり取りは年齢を超えて、二人が真の友であった事を後世に伝えているのです。
三国志ライターkawausoの独り言
私利私欲を超え自分を弾劾した种暠を曹騰が引きたて、种暠が引き立てた橋玄が曹騰の孫である曹操が世に出るのに尽力した。そして、橋玄と曹操の間には、ただの義理だけではない年齢を超えた友としての交流がありました。それにしても、曹騰、橋玄、曹操には性格的に似た部分もあり、偶然ではなく運命が導き寄せた気もします。
参考文献:史実としての三国志
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