明智光秀の生誕地は一体どこ?

2019年10月18日


 

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明智光秀 麒麟がくる

 

2020年のNHK大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」の主人公は明智光秀(あけちみつひで)です。

しかし、この明智光秀、人生の前半部分がほとんど分からない人物であり、生誕地ですら複数存在するという状況です。

そこで、この記事では明智光秀の出身地について代表的な場所を紹介します。

 

自称・皇帝
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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明智光秀の生誕地:大本命岐阜県可児市瀬田説

お茶を楽しむ明智光秀

 

明智光秀の生誕地として最も証拠が揃っているのが、岐阜県の可児市瀬田(かにしせた)です。

市の東側の小高い丘陵地にある山城明智城跡が、その生誕地とされています。

 

 

江戸時代に編纂された「美濃国諸旧記(みののくにしょきゅうき)」によると平安時代より明智荘と呼ばれた現在の可児市瀬田地域に、土岐明智氏の祖である

土岐頼兼(ときよりかね)が永山城を築城し、代々の当主が居住したとあり、瀬田天龍寺には、明智家歴代当主の墓所と光秀等身大の位牌があります。

また、耕地整理により跡は現存はしませんが、光秀が産湯をつかった古井戸もあったそうです。

 

NHK大河「麒麟がくる」で光秀の生誕地について具体的な土地の名前が出るか不明ですが、出てくるとすれば、

可児市瀬田が登場するのが最有力でしょう。

 

明智光秀の生誕地:岐阜県大垣市多良説

馬にまたがって戦う明智光秀

 

岐阜県大垣市多良(たら)も明智光秀の生誕地として名乗りを上げています。

それによると、光秀は大垣市にあった多羅城に生まれて、その後養子として可児市の瀬田に行ったのだという主張です。

東京大学史料編纂所の「大日本史料」にある「明智氏一族宮城家相傳系図書」の中で光秀については、

 

 

「享禄元年(1528年)8月17日石津郡多羅に於いて生まれる多羅は進士家の居城也」という記述があるそうです。

西遊記巻物 書物

 

同書には、光秀の生母は明智城9代城主明智光綱(あけちみつつな)の妹、市の方であり市の方は多羅城の山岸信周(やまぎしのぶちか)(とつ)ぎ多羅城で懐妊。

明智城に里帰りしている時に産気づいて光秀を産み、その後、子供が無かった兄の光綱が光秀を養子として引き取ったとされているようです。

これは、光秀の生母が若狭武田氏の於牧の方であるという定説を覆す説ですが「明智氏一族宮城家相傳系図書(みやぎけそうでんけいずしょ)」自体に

後世の書き換えの可能性もあり100%鵜呑(うの)みには出来ない説ではあります。

 

麒麟がくる

 

明智光秀の生誕地:滋賀県多賀町説

明智光秀は鉄砲の名人 麒麟がくる

 

岐阜県大垣市から鞍掛峠(くらかけとうげ)を隔てた滋賀県多賀町(旧近江国佐目村(さめ))も光秀生誕の地としてクローズアップされています。

具体的証拠として挙げられたのが明智光秀公口伝の地「十兵衛屋敷跡」でここに明智光秀が住んでいたという口伝が残っています。

確かに光秀の通称は十兵衛光秀なので、ここが光秀屋敷跡という可能性はゼロでは無さそうです。

 

 

その口伝の具体的な内容は見津一族に五百年伝わるもので、「佐目村の十二相神社近くに光秀の屋敷があった」というものだそうです。

これだけなら信憑性も不確かなただの口伝ですが、この内容が、光秀の出自について記した最古の古文書「淡海温故録(おうみおんころく)」と

一致しているのだそうで、今後の研究が注目されます。

 

明智光秀の生誕地:岐阜県恵那市説

 

岐阜県の恵那市(えなし)には、光秀の実母で非業の最期を遂げた於牧(おまき)の方墓所や、光秀が若い頃に学問に励んだ学問所のある天神神社、

光秀が植えたとされる(かえで)が伝わる柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)神社があります。

 

また恵那市には、宝治元年(1247年)に明智城の支城として築城された落合砦(おちあいとりで)があり光秀はここで生まれたという伝承があり、落合砦跡には産湯の井戸も現存します。

恵那市には、光秀の母、光秀自身にまつわる建物や逸話があり、ここで光秀が生まれたかどうかは別としても光秀にゆかりが深い土地と言えます。

 

明智光秀の生誕地:岐阜県山県市説

斎藤道三

 

岐阜県山県市(やまがたし)には、土岐氏が築いた大桑城(おおがじょう)という山城がありました。

往時には、ここで斎藤道三と土岐氏の間で幾度も合戦があり、最終的に土岐氏が敗れて大桑城は落城してしまったようです。

この大桑城の東の中洞地区には桔梗塚(ききょうづか)があり、ここが光秀の墓と伝わります。

おいおい、生誕地じゃないのかよという話ですが、ちょっと待って桔梗塚への入り口付近には、光秀が産湯をつかった井戸跡もあるのだそうです。

 

現地の案内板によると、光秀は山崎の合戦では死なず影武者の荒木山城守行信(あらきやましろのかみゆきのぶ)が身代わりで戦死し追跡を逃れ西洞寺に隠れ住んでいたそうで、

その後は雲水になり、諸国遍歴の旅に出ますが、関ケ原の合戦が起こると東軍に味方すべく戦場に駆け付ける途中に増水した川に足を取られ

溺死してしまったと書かれています。

黄蓋、赤壁の戦いでうっかり河ポチャ

 

関ヶ原の合戦の頃の光秀は80代~60代前後であり当時の平均寿命をとうに越えた老人です。

そんな人が司令官ならまだしも、一兵卒(いっぺいそつ)として関ヶ原に参加するというのは、にわかに信じがたい話ですね。

とまれ、光秀の亡骸(なきがら)は同地で埋葬され、現在でも同地では光秀の慰霊祭をしているとか、

山県市が光秀の生誕地であるという信憑性(しんぴょうせい)は薄いですが、地元の人々にとり光秀は身近な存在であるそうです。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

 

2020年の大河ドラマの主人公、明智光秀、後半生はよく知られている彼ですが前半生はほとんど分かっていません。

 

馬に乗って戦う若き織田信長

 

それだけ光秀は、瓦礫沈淪(がれきちんりん)(水に沈んだがれき)のような存在であり、歴史に顧みられる事がない無名の存在だったのでしょう。

しかし、必死の努力の末に織田信長(おだのぶなが)の知遇を得た光秀は、ほんの二十年余りで日本史上で知らぬ人間がいない程の有名人にのしあがったのです。

燃える本能寺

 

そして、外ならぬ自分を引き立ててくれた天下人織田信長を討った事で、明智光秀の名前は、日本史に燦然と輝く事になります。

また、多くの土地で光秀に関する伝承が残っている事実は、少なくとも庶民レベルでは明智光秀が大悪党として嫌われているわけではなかった

この事実を示しているとも言えますね。

 

参考文献:歴史旅人vol5 明智光秀 歴史から消された生涯の謎を徹底解明

 

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