諸葛亮が守り伝えた世界遺産「都江堰」とは何?


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蜀の劉備

 

劉備(りゅうび)が益州を支配した大きな動機は、益州が秦嶺山脈(しんれいさんみゃく)に守られた攻めにくく守りやすい土地であった事と同時に天府之国(てんぷのくに)(うた)われた穀倉地帯だったからです。しかし、益州は何もしないで穀倉地帯だったわけではありません。

 

益州を豊かにしたのは都江堰(とこうえん)という堤防のお陰であり、堤防を建設した李冰(りひょう)とその堤防を維持した歴代王朝、そして諸葛亮(しょかつりょう)の功績でした。

 

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キングダムの時代李冰が都江堰を完成させる

蜀の兵士

 

都江堰は、岷江(みんこう)が龍門山脈を抜け成都平原に出る部分に形成された扇状地の扇頂部に設けられた堤防です。元々、岷江は春になると雪解け水が山々から流れ込んでくる事で増水し、川幅が広くなる地点で周囲に水が溢れ洪水を引き起こす暴れ川でした。折角、近くに川がありながら、水量が莫大でコントロールできないので益州の人々は干ばつと洪水に毎年悩まされていたのです。

ダムを作っている蜀兵士

 

当時、蜀郡太守だった李冰は庶民の苦しみを取り除こうと3年かけてくまなく岷江周辺を調査します。そして、洪水を防ぐ方法としてはダムを建設して岷江を堰き止めればいいが岷江は、領土の奥地へ軍隊を送る重要な水路でもあるために、完全に()き止める方法は取らず、水量を調整して洪水が起こらないよう堤防を築こうと考えます。

都江堰

都江堰の構造wiki

 

そこで、川の中に堤防を築いて水の一部を本流から分離し、その水を玉塁山を切り開いた運河を通して岷江左岸の乾燥した成都盆地に流す事を秦の昭襄王(しょうじょうおう)に提案します。昭襄王は、提案を受理して紀元前256年李冰に銀十万両を与えて堤防建設と運河掘削を命じました。

昭襄王

 

李冰は川の中に石を詰めた細長い竹籠をいくつも投入し、それを榪槎(まさ)というテトラポッド状の木枠で固定します。こうして4年の歳月を費やし、川の流れに中州の島を造り魚嘴(ぎょし)と呼ばれる調節堤を先端に設置して水流を分散する事が可能になりました。


難工事の途中で李冰は亡くなるが

赤壁の戦い

 

しかし、工事はここからが本番で、岷江から成都盆地への運河を玉塁山を切り開いて建設する作業が残っていました。ダイナマイトも火薬もない2200年の大昔、李冰は玉塁山(ぎょくるいざん)の岩盤を火で温めた後に水で冷まし、岩盤に亀裂(きれつ)が入るまで繰り返すという気の遠くなるような作業を続ける事8年、ようやく20メートル幅の運河が完成したのです。

 

残念な事に李冰は12年にも及ぶ工事の途中で病死しますが、大工事は息子の李二郎に引き継がれ完成を見たのでした。工事の完成により岷江の洪水はなくなり、同時に不毛地帯だった成都盆地は穀倉地帯へと生まれ変わったのです。

 

激動の時代を生きた先人たちから学ぶ『ビジネス三国志

ビジネス三国志


霊帝、諸葛亮、受け継がれる都江堰

霊帝

 

都江堰の管理と修繕は歴代王朝において重要な職務とされ、何度も補修と補強工事が行われました。暗愚で有名な後漢の霊帝(れいてい)の時代には、「都水掾(とすいじょう)」と「都水長(とすいちょう)」という役職をおいて堤防の維持管理をしています。自分の事しか考えないと歴史上厳しく批判される霊帝ですが、洛陽を離れた益州の治水事業にも、ちゃんと帝国として関与していたのが意外な感じがします。

 

もしかすると、霊帝は言われるほどの暗君ではないかも知れません。三国志、蜀の丞相である諸葛亮も、天府之国を維持する重要な都江堰を大切に維持管理しました。

ダムが完成した蜀

 

孔明は、後漢の影響力が及ばなくなり荒れた都江堰の管理に並々ならぬ力を入れ専従の堰官を設置し1200名の士卒を常駐させ一年を通し都江堰を監視しています。戦乱の時代ですから、都江堰を破壊されたり、毒を流されたりするのを警戒する必要もあったのでしょうか。

 

いずれにせよ、諸葛亮は都江堰の維持管理に多大な貢献をしているのです。

孔明

 

そればかりではなく、孔明は成都の北西に九里堤を設置して洪水を防ぐなどしながら低湿地を干拓して農地にするなど農業効率の向上を図っています。三国志演義のスーパー軍師ぶりと違い、史実の諸葛亮は行政官僚として有能であった事が分かります。


歴代王朝により守られた都江堰は世界遺産へ

北京の世界遺産「頤和園」 f

 

都江堰は2300年の昔に完成してより、無数の補修と改修補強を繰り返し現在まで伝えられている、人類が共有すべき顕著な普遍の価値を持つ構造物として西暦2000年、青城山と共にユネスコの世界遺産に登録されました。都江堰は、現在でも水利施設としてちゃんと機能し、成都に豊かな実りをもたらしているのです。

三国志のモブ 反乱

 

中国は歴史上絶え間ない戦乱が繰り返され、支配者が目まぐるしく変わりまた易姓革命(えきせいかくめい)悪弊(あくへい)もあり、前王朝の事績を破壊する事で、現王朝の正統性の証とする事も繰り返し行われましたが、それでも、天下万民に恵みを与える都江堰は、敵味方を超えて守られ今日まで伝えられた事になります。

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

後漢の関与が戦乱の影響で薄れ、荒廃が進んでいた都江堰。ここに逸早く目をつけて補修し維持管理した諸葛亮の行動は、都江堰が今日まで残るのに、一定以上の影響を残したと思います。諸葛亮の名前は、彼の生前から広く益州の人民に慕われていて死後は、すぐに(ほこら)が造られたりしています。

 

これは、三国志演義のスーパー軍師ぶりは無関係に、生前の諸葛亮が民政の安定に心を砕いて働いていたその真心が益州の人民に伝わっていた為でしょう。劉焉(りゅうえん)劉璋(りゅうしょう)の父子も、益州を統治する事二十年に及びながら彼らを祀る祠については、聴いた事がありませんから

 

諸葛亮の治世が厳しかったとはいえ公正で、前時代に比較して住民に益をもたらしたのは、確かではないかと思います。

 

参考文献:講演 諸葛亮と成都

都江堰Wikipedia

 

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