【実はドヤ顔】諸葛亮が唯一勝利した第三次北伐を解説

2019年9月11日


 

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夜の五丈原で悲しそうにしている孔明

 

都合、五回に(わた)り繰り広げられた諸葛亮(しょかつりょう)北伐(ほくばつ)。しかし、最後の五丈原(ごじょうげん)における孔明の死や街亭(がいてい)馬謖(ばしょく)の失敗などでにより、結局、一度も魏に勝てていない弱い諸葛亮のイメージが強いです。ところが、五回の北伐で実は1回だけ諸葛亮の勝った北伐があります。それが第三次北伐なのです。

 

※この記事はkawausoの独自見解が含まれています。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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第三次北伐とはどんな戦い?

 

第三次北伐とは、西暦229年、諸葛亮が陳倉城(ちんそうじょう)を攻めあぐねて退却した第二次北伐の次に開始されました。どのような経緯(けいい)かというと、諸葛亮が陳式(ちんしき)という将軍に命じ涼州の武都(ぶと)陰平(いんぺい)を攻略。

 

これを知った郭淮(かくわい)が迎撃しようとしたところを諸葛亮が打って出て建威(けんい)に至ると戦況を不利とみた郭淮が、退却したという地味な戦争です。そのせいで、この第三次北伐に関しては、第二次北伐からほぼ間がなく第二次北伐の延長戦として、北伐の回数にカウントしない見方もあります。

 

魏の旗をバックに戦争をする郭淮は魏の将軍

 

「なーんだ、諸葛亮が少し巻き返しただけか、しょっぼい戦い!」

 

いやいや、そうバカにしたものでもありません。実は、この戦いの勝因は諸葛亮の得意分野の謀略(ぼうりゃく)だったのです。

 

 



武都と陰平は自ら開城していた?

洛陽城

 

 

いかに諸葛亮が自ら出張ってきたとはいえ、郭淮が簡単に退却したのは不思議です。まさか、三国志演義のように孔明の知略を恐れたという事はないでしょう。郭淮は無理攻めをしない人物なので、あっさりと退却を決意した理由は、1つしかありません。

 

漢帝国の宿敵で匈奴の名君(匈奴族)

 

 

それは、武都と陰平は、蜀の内部工作でほぼ陥落しており、陳式はただ受け取りに行くだけだったという推測です。

 

すでに敵の手に落ちた城を奪還するほどシンドイ事はありません。相当な蜀のシンパが存在し、水面下での激烈な抵抗が予想されるでしょう。郭淮は、情勢の不利を悟り引き下がったと考えられるのです。

 

 

北伐の真実に迫る

北伐

 

 

諸葛亮の真意は河西の分断

曹操を絶対殺すマンとしてなった馬超

 

 

魏は潼関(どうかん)の戦いで馬超(ばちょう)韓遂(かんすい)の連合軍を撃破して以来、涼州には夏侯淵(かこうえん)を置いて統治していましたが、事実上、涼州の異民族は魏の支配には(なつ)いていませんでした。それが端的に分かるのが魏による度々の物資の徴収です。

 

魏の将軍、郭淮(かくわい)

 

 

第四次北伐の時の事、鹵城(ろじょう)に出撃した蜀軍に対して魏軍は食料の備えがありませんでした。そこで諸将で軍議を開いて関中から運ばせようとしますが、郭淮は反対し脅しによって、土地の羌や胡から食糧を徴発し輸送まで負担させています。

 

正史三国志には、この部分は脅しではなく恩威(おんい)と書いていますが、楽な暮らしではない羌や胡のような異民族が喜んで食糧を差し出すとは考えられず強制徴発(きょうせいちょうはつ)だったのは、疑いない所です。

 

兵糧を運ぶ兵士

 

そして、強制徴発という様子を見る限り、魏の涼州統治が不安定である事が分かります。搾取(さくしゅ)するばかりの魏に対して、異民族が不満を持つのは当然であり諸葛亮はそこに付け込んで得意の謀略戦を仕掛けたのでしょう。

 

北伐における諸葛亮の基本戦略は、河西(黄河西岸)を魏から分断し涼州の異民族勢力を丸々囲い込む事であり、魏のいい加減な涼州統治は、諸葛亮の謀略戦にとって追い風でした。

 

孔明

 

事実として、第一次北伐では、関中の南安(なんあん)天水(てんすい)安定(あんてい)が蜀軍に呼応して反旗を(ひるがえ)しているわけです。これは、たまたまという事は考えられず、孔明は地道に魏SAGE&蜀AGEの謀略工作を続けていて、それが実ったのでしょう。

 

 

姜維の大抜擢は諸葛亮プロデュース

姜維、孔明

 

諸葛亮の異民族、特に羌族への働きかけには、姜維の引き立てがあります。姜維は涼州の名族であり、実際に優秀な人物だとしても、諸葛亮の存命中に征西将軍(せいせいしょうぐん)に任命するなどポスト馬超をイメージした様子が見えます。

蜀馬に乗って戦場を駆け抜ける馬超

 

実は征西将軍とは、かつて馬騰(ばとう)が任命され、馬超が潼関の戦いで、自称とはいえ自ら名乗った将軍号なのです。蜀に投降した後は、目立った動きがないまま没した馬超ですが、馬超の存在は、蜀の統治に対する異民族の反乱を抑制する力がありました。

 

そこで、早逝してしまった馬超に代わり、姜維を征西将軍に任命し馬超ジュニアとして印象付け、羌族を始めとする異民族を糾合して従え河西を魏の影響下から分断する駒として使うというのが謀略好きな諸葛亮の深慮遠謀(しんりょえんぼう)であったと推測するのです。

 

北伐したくてたまらない姜維

 

もっとも、それを具体的に肉付けする前に諸葛亮は五丈原で還らぬ人になります。

 

もしかすると諸葛亮は、生前姜維に「君こそ馬超ジュニア」と言い含めていてそれが、姜維の北伐絶対遂行マンの人生に影響を与えたかも知れません、勝手な推測ですけどね。

 

 

第三次北伐は謀略により孔明が勝利した記念碑的戦い

孔明

 

 

(ひるがえ)って考えてみると、諸葛亮は謀略戦を得意としながら、第一次北伐では街亭の失陥、第二次北伐では、陳倉城を攻めあぐねるなど、アクシデントと不得意分野で何度も敗北を余儀なくされました。

 

逆に、第四次と第五次北伐は、国力に乏しい蜀の弱点を司馬懿(しばい)に突かれ不本意な成果しか上げる事が出来ませんでした。しかし、第三次北伐だけは、戦わずして謀略によって武都と陰平を手に入れたので、いかに地味とはいえ、孔明には会心の勝利だったかもです。

 

孔明と司馬懿

 

その勝利により、諸葛亮は劉禅(りゅうぜん)からの詔策(しょうさく)により、降格処分から復権して丞相(じょうしょう)に返り咲いています。当時の劉禅が、自分の独断で諸葛亮の降格処分を解くような主体性を発揮できるとはとても思えないので、その判断の背後には自らを許す諸葛亮の判断がきっと存在したと考えるのが自然です。

 

(街亭では馬謖を信じて失敗したが、今回は無傷で武都と陰平を手に入れた。これで丞相に復権しても、世間様にも顔が立つだろう諸葛亮は、ちゃんと手柄を立てて復権した公明正大でなんていい人なんちて、ウヒョ)

 

孔明

 

みたいに考えて復権したと想像すると微笑(ふりがな)ましいですね。

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

司馬懿は五丈原で諸葛亮と対峙している時に、弟の司馬孚に手紙で言っています。「諸葛亮は志は大きいが時期を見る目がない、謀略に優れるが決断力がない戦術に巧みだが正攻法しか取れない」

 

これは、実際に孔明と対峙した司馬懿の意見だけに説得力があります。諸葛亮が理想とした勝利の方程式は第三次北伐のような、謀略で敵を攪乱し戦わずして相手が倒れるようなものだったのではないでしょうか?

 

参考:正史三国志

 

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夷陵の戦い

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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