華雄は後漢(25年~220年)末期の将軍です。董卓配下の人物であり初平元年(190年)に曹操・袁紹が挙兵して洛陽に攻めてきた時に迎え撃ちます。
小説『三国志演義』では一騎当千の豪傑として討伐軍を苦しめますが、史実では孫堅にあっけなく討たれています。今回は正史『三国志』をもとに華雄が出陣して散っていった陽人の戦いについて解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています。
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呂布と胡軫の仲違い
初平元年(190年)に諸侯は董卓を討伐するために各地から出陣します。その中に孫堅がいました。途中で袁術と合流して同盟を結ぶと、さらに進軍!王粲が執筆したとされる『英雄記』という書物によると孫堅が董卓討伐のために出陣したので、董卓は総大将に胡軫を騎兵の指揮官に呂布を任命しました。
華雄はどこでしょうか?
実は華雄は胡軫の配下として従軍していました。小説『三国志演義』では華雄が胡軫の上官でしたが、正史では真逆です。なぜ真逆にしたのか全く分かりません。最初の一戦で孫堅軍は董卓軍に敗れ去り、孫堅も自分の頭巾を脱いで逃走する始末。
せっかちな性格の胡軫は「この一戦は太守1人斬ってしまえば、終わるんだよ!」と呂布たちの前でビッグマウス全開!それを聞いて呂布や他の将軍はカチンときます。このように呂布と胡軫は対立が生じます。それは彼らの出身地にも関係しています。呂布が率いる軍は幷州系の軍閥であり、胡軫が率いるのは涼州系の軍閥です。
呂布軍は現在の内モンゴル自治区方面であり、胡軫軍は現在の甘粛省方面です。言葉も風習も違うので気が合うはずがありません。
呂布の裏切りのせいで死んだ華雄
さて、胡軫のビッグマウスを聞いた呂布はやる気も失せてしまいます。さっさと孫堅たちが胡軫を叩き潰してしまえば良いと考えました。そこで呂布は進軍中の胡軫に、「陽人城にいる孫堅軍は、もう逃げてしまいました」とウソ情報を流しました。
胡軫は勢いづくと孫堅がいる陽人城まで到着しました。だが不思議なことに陽人城は守備兵がおり防御が固くされている。胡軫軍はずっと走りっぱなしなのでギブアップ!仕方ないので甲冑を脱いで休憩していました。それを見た呂布は、「敵が城から出て来たぞ」と再びデマを流します。
デマを信じた胡軫軍は甲冑を着る暇も無く逃走を開始!勝手に逃げ回る胡軫軍を見た孫堅は絶対に「何をしているんだ?」と思ったでしょう。
一方、胡軫はいくら逃げても孫堅が追いかけてくる様子がありません。不審に思ったので夜が明けて戻ると城からは兵士が出ている様子はありませんでした。それどころか逃げている間に、孫堅軍の防御が固くなってしまいました。
こうして胡軫は大した戦果を挙げることが出来ずに孫堅により撃破されます。この時に華雄は孫堅により斬られます。享年不明です。
三国志ライター 晃の独り言
以上が正史における華雄の最期でした。華雄はマンガやゲームでは活躍するのですが、史実では無名に等しい人物です。小説『三国志演義』で彼が豪傑に設定された理由は、今でも分かっていません。もしかしたら作者が華雄と胡軫を間違えたのかもしれません・・・・・・
筆者は華雄の思い出としては「真・三国無双3」です。筆者が最初に購入した無双シリーズでした。このゲームには「一騎討ち」という制度があり、敵プレイヤーに挑まれたら対戦することが出来ました。もちろんお断りも出来ます。
ちなみに一騎討ちで負けたら、その場でゲームオーバーです。何人も敵将を倒した苦労はその場で水の泡・・・・・・
華雄は序盤の汜水関の戦いで一騎討ちを挑んできます。無双初心者であった筆者は、わけも分からず挑んでしまい、即刻KO!筆者の夏侯淵はあえなく討ち死に・・・・・・当時の筆者は目が点になりました。呂布は勝てないに等しいです。筆者は1回しか勝てませんでした。
でも、一騎討ちで勝つ方法は1つだけありますので、今回はそれを教えて終わろうと思います。敵を壁に追い詰めて、徹底的に攻撃すること。これしか無いのです。
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