建安2年(197年)に曹操は南陽の宛城に、かつて打ち破った董卓の残党が再び集結して許昌を攻撃しようとする情報を入手します。総大将はかつて董卓に仕えていた張済の甥の張繍。
曹操は急いで準備を整えると出陣しました。しかし、この戦いで曹操は大切なものを失うことになります。
今回は小説『三国志演義』をもとに「宛城の戦い」について解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています
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あっさり降伏の張繍と賈詡
曹操は15万の兵士を引き連れて張繍の本拠地である宛城に到着しました。報告を聞いた張繍はびっくりして、軍師の賈詡と相談します。
「曹操が陣頭指揮をしている以上は、真正面から戦っても我々は勝ち目ゼロです」と賈詡は辛口評価。
「それじゃあ、どうすればいいの?」と張繍が尋ねると、賈詡は力を温存するためにニセの降伏を提案。確かにそれはいいかも、と思った張繍も賛成して賈詡と一緒に降伏しました。曹操は一兵も損なわないから彼らの降伏をあっさりと受け入れます。
美貌の鄒氏と賈詡の企み
曹操はしばらくの間、宛城にいました。そこで鄒氏という女性に出会います。亡くなった張繍の叔父の張済の妾です。張繍とは義理のおばの関係に該当します。年齢は不明ですが20~30代と推測されます。曹操はこの時点で正妻の丁夫人、妾の卞夫人もいました。だが、そんなことお構いなしに猛烈アタック!
やがてその件が張繍の耳に入りました。張繍は城内は勝手に歩く、親族に手は出す曹操に我慢が出来ず激怒。だが、軍師の賈詡は「女に油断している今こそ奇襲のチャンスです!」と張繍を励まします。
言われてみればその通り、と張繍は考えを改めました。ところが問題が1つありました。曹操の護衛に付いている典韋です。典韋は曹操のボディーガードをしており、曹操軍の豪傑でした。
まずは典韋を排除する必要があります。張繍は自分の配下で1番の豪傑である胡車児を呼んで典韋と一騎打ちで勝てるか尋ねます。
「恥ずかしながら典韋には歯が立ちません」と胡車児は、あっさりと負けを認めます。話にならないと思った張繍でしたが、胡車児は有力な情報を持っていました。
「典韋は酒好きです。酒宴に招いて、酔わせて武器を奪って殺すのはいかがですか?」
名案である、と思った張繍は賈詡と一緒に実行することにします。
典韋の最期と曹操の悲しみ
張繍は典韋が非番の日に酒宴に招待しました。典韋は久しぶりの酒だったので、すっかり酔いつぶれます。酔った典韋を屋敷まで送り届けた胡車児は、スキを突いて剣と戟を奪いました。
さて、曹操は鄒氏と楽しく過ごしていましたが、城の内外の様子が変であることに気付きます。急いで甲冑を身に着けて駆け付けると、張繍たちが一斉に攻撃を仕掛けてきました。
謀られたと気付いた曹操でしたが時は遅く攻撃を受けます。一方、典韋も目覚めた時は火に囲まれていました。典韋は武器を探しましたが見つかりません。状況を把握した彼は、外に出ると張繍軍と奮戦しました。
典韋は相手の武器を奪って奮戦するも、敵は圧倒的に数が多く、ましてや彼は酒を飲んでいたのでいつもの力が出ません。それでも典韋は曹操のボディーガードの役目を果たすために戦います。
張繍軍は正面から戦っても勝てないと分かったので、弓矢で攻撃することを決めます。一斉に弓矢が典韋に向かって発射!典韋はその矢を全て受け止めました。
彼は・・・・・・典韋は直立不動のままこの世を去りました。死んでも主人の曹操を守ろうとしたのです。
なお、逃走に成功した曹操は典韋が死んだことを聞かされました。この戦で息子の曹昴と甥の曹安民も死にましたが、曹操は典韋という忠実な部下を失ったことに莫大なショックを受けました。
曹操は典韋のことを一生忘れず、また典韋の子の典満には位を与えたのでした。
三国志ライター 晃の独り言
以上が賈詡の謀略と典韋の最期についての解説でした。実は典韋の最期については科学的解明がされています。人間は激しい運動をして急死するとすぐに死後硬直が始まる可能性があるようでした。
典韋の他に立って死んだことで有名なのは日本の武蔵坊弁慶や日清戦争で戦死した木口小平という兵隊です。昔の人は立って死ぬというのは、「忠臣」と考えていたのでしょうね。
もしかしたら、昔の戦場には直立不動の遺体がいっぱいあったかもしれませんね。
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