三国志の物語の終盤を飾る一大エピソードは、やはり蜀漢の滅亡の経緯でしょう。魏を相手にあれほど奮闘していた劉備と諸葛亮の時代はすっかり昔日の栄光。
歴史のもはや必然といえばそれまでですが、西暦でいう250年代頃から三国間の国力差が決定的になり、特に蜀はあっけないほどのモロさで崩壊してしまいます。
その際の「蜀漢征伐軍」の司令官の一人が、鍾会。
この人と鄧艾の二人組が実際に蜀を降伏に追い込んだわけです。この二人、この世代の魏における最高級の人材であったことは確かです。
のみならず蜀の側のファンから見れば、「あの蜀を滅ぼした指揮官というのは、せめてよほどなオオモノであってほしい!」という気持ちも強いのではないでしょうか?
たしかに、特にこの鍾会という人物、史実に近い記録であるはずの「正史三国志」を見ても伝説的なエピソードが多く、並の人物ではなかったようです!
そんな彼のエピソードを紹介しつつ、鍾会をカタキとして見ているはずの蜀ファンの方々もいちばん気にしているはずのところの、「人物としての度量はどうだったの?」を見ていきましょう!
つまり、鍾会って、性格はいい奴だったの、悪い奴だったの?
あるいは、人物的には「オオモノだったの? コモノだったの?」
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この記事の目次
鳴り物入りのデビュー!若いころから期待されまくりの秀才だった!
さっそく「正史三国志」の「鍾会伝」を紐解いてみると、若いころからの利発さを示す証言が続々と出て来ます。
・五歳の時に人物鑑定家から「これはただの子供ではない!たいへんなオオモノになるだろう!」と鑑定されていた
・教育熱心な母親に育てられ、名著とされる中国古典の兵法書や経世書をひととおり子供のうちに読みこなしてしまっていた
・もっとも本人は古典文学よりも論理学(!)を好んでおり、成人してからは仕事を終えた夜間に寸暇も惜しんで論理学の勉強をしていた
・仲間が司馬師に文書を提出する仕事をまかされたとき、その文章を添削してあげた。その文書が司馬師の目に留まった時、「この文章はお前の文章ではないな、きっと誰か相当な博識の者が添削を加えたに違いない!いったい誰の添削だ!これを添削した者はそうとうなやつだろう」と司馬師が大騒ぎをした。添削された者(虞松)よりも添削した者(鍾会)のほうがお眼鏡にかなうという結果になった
などなど。
なんだか武将というよりは、宗教や哲学の世界の偉人のエピソードみたいに聞こえる、「子供の時から天才だった」を強調する話ばかりですね。
ただ、ちょっと気になるところがあります。ハイ。
現代の視点から見ると家庭環境がちょっと普通じゃないような?
気になるのは、「鍾会伝」にしばしば出てくる「お母さん」の存在ですね。
・鍾会の母は、ライバルである妾に毒を盛られて死にかけた時も、「妻の間で殺し合いが起こっていることなどが公になると家の名前に傷がつくから、このことは不問にしましょう!」と相手を許したほどの「よくできた妻」だった
・とても厳しい母親で、鍾会にもしばしば教訓を叩き込んでいた
・子である鍾会には、七歳の時に『論語』、八歳の時に『詩経』と、「〇歳の時には〇〇を読ませる」という独自の教育プログラムで英才教育を施していた
なるほどすばらしい母親!
とも思いつつ、ちょっと「やりすぎでは?」と心配になる面もあるのではないでしょうか?
少なくとも現代の目から見ると「こういう母親が教育ママな家で育った子の性格って、大丈夫かな?」と不安になるのではないでしょうか?
だいいち、有名人であるはずの父親の影がぜんぜん見えない家庭環境なのです。
だってお父さんは鍾繇ですよ?
もっと存在感が大きくてもいいはずなのに。
鍾会がお母さんにお勉強を叩き込まれている間、鍾繇はどこにいたのかといえば、経歴を見る限り鍾繇は鍾繇でこきつかわれていた時代なので、ほとんど家に帰っていなかったのかもしれません。
まとめ:「蜀を滅ぼした人が絶対に言ってはいけないこと」を言ってしまっているあたりを見ると
こういうタイプの「秀才」人生を歩んだ人間は、性格の悪い天狗になって失敗するのが中国史の定石。
鍾会も最期は姜維にたぶらかされて反乱を起こし秒殺されるという、あまりきれいではない死に方をしています。
そんな鍾会、人間としてはどんなヤツだったのでしょうか?
気になるエピソードを並べていきますので、あとは読者の皆さんで判断してほしいと思います。
以下はすべて「正史三国志」に書いてあるものです。
・鍾会は文章家として知られいろいろな文章を遺していたが、その中に「お母さんの伝記」が入っている
・「私の母、張は字を昌蒲といい、代々県令の家に生まれた」云々で始まる、まるで武将列伝のような正式な形式の「伝記」である
・既に成人して仕事をしている時代のエピソードとして、曹爽が酒びたりの人物であることを母親と話題にし、お母さんから「人の上に立っても曹爽みたいにはなっちゃいけませんよ」「わかりました母上!」という会話を交わしていたことが「正史」に載っている。このやりとり大丈夫だったのか?
・これは有名な話だが、蜀を滅ぼした後に、同僚である鄧艾について「謀反の疑いがある」と司馬昭にチクり、鄧艾逮捕事件につなげたのは鍾会の陰謀
・その鍾会自身が直後に本当に謀反を起こした。自信たっぷりの挙兵だったのに秒殺された。なにやってんだか
三国志ライター YASHIROの独り言
あとは読者の皆様の判断に、というところですが、「三国志ファン」としては決定的に問題となる言動が「正史」に載っているので、最後にこれを紹介しましょう。
・謀反を起こした時、「うまくすれば司馬昭を倒してオレが天下を取れるかもしれない。もし失敗したとしても、蜀に閉じこもって守りを固めれば、あの劉備くらいのレベルの君主にはなれるだろう!」と演説した
「最低でも劉備くらいのレベルにはいけるんじゃね?」って、蜀を滅ぼした人間がその土地で絶対に言っちゃいけないワードじゃないでしょうか?
これを堂々と挙兵時に公言していた鍾会の性格。
三国志ファンの皆様は、どう判定しますか?
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