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劉備は趙雲や関羽・張飛と同じベットで寝ているけど狭くない?

2019年11月26日


 

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張飛、劉備、関羽の桃園三兄弟

 

正史三国志によると劉備(りゅうび)は、関羽(かんう)張飛(ちょうひ)とベットを共にしていたと書かれています。

しかし、現代日本の感覚では、大の男3人が1つのベットで寝るなんて狭くないのかなと考えてしまいます。果たして当時、本当に1つのベットに大の男3人が眠る事なんて出来たのでしょうか?

 

桃園3兄弟

 

今回は、義兄弟の友情を育んだ三国志の時代のベットについて調べてみました。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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当時のベットは牀と呼ばれた

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

そもそも、当時のベットは何と呼ばれていたのでしょうか?正史三国志先主伝には、

先主與二人寢則同(せんしゅふたりとおなじベットでねむる) 恩若兄弟(きょうだいのごとし)とあり、この中の「(しょう)」と言うのがベットに当たります。この牀は(しょう)繁体(はんたいじ)で意味は同じです。

しかし、この牀は現在でいう所のベットではなく、ソファーベットやカウチ、ラウンジチェアを相称したデイベットという種類に入っています。

ネズミで人生を変えた李斯

 

当時の中国には椅子(いす)というものがなく、人々は室内に入る時には履物を脱いで入り、土間に座る生活をしていました。ただ、土間というのは時期によっては寒いですし、ネズミや虫の類が走り回る場所でもあります。

そして素足であっても、人が土足で歩き回る場所ですから、お世辞にも綺麗とは言えません。そこで、眠る時や食事の時には土間ではなく、牀の上で胡坐をかいて済ます事が習慣化したのです。ですので、牀には背もたれや肘置きがついていて、座ったままでも寛げるように工夫がされていました。

 

牀に上れるのは親しい人だけ

趙雲と劉備

 

こちらの牀はソファーであり時にはテーブルであり眠くなるとそのまま寝具でした。なので親しい人や身内しか牀に上る事は出来ません。

正史三国志呂布伝に引く英雄記にも、劉備が呂布(りょふ)を受け入れた時、呂布は劉備を自室に招いて、婦人の牀に座らせてから婦人に挨拶させ酒食でもてなしたとあります。

呂布

 

呂布は、曹操(そうそう)に兗州を奪還(だっかん)されて寄る辺もなく、なんとかして劉備の機嫌を取って懐に入り込む必要があったので、劉備と同じく自分も辺境の田舎者なので気が合うと持ち上げ、最後には自身を兄、劉備を弟と呼ぶような事をしています。

関羽、劉備、張飛の桃園三兄弟

 

劉備は調子がよい事を言う呂布の発言の一貫性の無さに不快感を抱いたとされていますが、いずれにせよ、牀に上れるのは近しい人々だけという事が分かります。関羽と張飛が同じベットで寝たというのは、劉備にとり二人がただのボディーガードではなく兄弟に匹敵する存在であるという意思表示なのです。

 

■古代中国の暮らしぶりがよくわかる■

古代中国の暮らし図鑑

 

牀の大きさは十分にあった?

兀突骨

 

牀の大きさは一人用から複数人が座れるものまで様々でした。現在のソファーが一人掛けから複数人が座れるモノまで多彩な種類があるのと同じです。最も古い牀の実物は河南省信陽長台関(かなんしょうしんようちょうだいかん)で出土した戦国時代のもので、牀の長さは 2メートル18センチ、幅は1メートル39センチで足は六足、足の高さは19センチもある大型のものでした。

強くなる関羽

 

これだけあれば、屈強な筋肉マンの関羽と張飛セットでも十分寝られるだけのスペースはあったでしょうし、また牀の上で食事をしたりしていたわけですから、十分な広さがあっても不思議はないでしょう。ただ、男同士で顔を見合わせて寝るのは、さすがに恥ずかしいというか違和感があるようで、実際には頭と足を互い違いにして眠っていたようです。

 

榻についての諸葛亮のスイートペイン

孔明

 

古代中国には、牀以外にも小型の(とう)という家具があり、これはベンチの役割でした。漢の時代以降、牀と榻は区別されるようになり、牀はベットとして定着していき、代わりに榻という家具がベンチの役割を果たすようになります。

こちらの榻については、かの天才軍師諸葛孔明(しょかつこうめい)に哀しい思い出があります。それは孔明が軍議に参加した後、疲れたので少し横になろうと榻を探していると、たった一つしかない榻を先輩の簡雍(かんよう)が独占して寝そべり、客と雑談していました。

孔明

 

疲れていた孔明は、しばらくその傍に(たたずんで)んでいましたが、簡雍は少しも気にせずにおしゃべりを続けたので諦めた諸葛亮はスゴスゴとその場を立ち去ったそうです。

諸葛亮已下則 獨擅一榻 項枕臥語 無所為屈

 

後には、蜀の丞相として絶大な権力を奮った孔明にも、ベンチを独占されても何も言えないパシリの時代があったんですね。

 

日本では普及しなかった牀

遣唐船(奈良時代)

 

日本には遣唐使の時代に牀が輸入されたそうですが、寝具として根付く事はなく、天皇・皇后の寝具である高御座の土台として名残をとどめるのみになりました。先の即位礼正殿の儀でもバッチリとテレビに映った八角形の天蓋の下の土台、あれが浜床(はまゆか)と呼ばれるようになった古代の牀です。

しかし、元来が床の生活であった日本では牀は普及する事なく、床の上にそのまま布団を敷いて寝る生活が戦後まで続く事になります。一方で中国では牀は床としてベットの意味になり、どんな家庭にでもあります。

韓信と劉邦

 

ベットの習慣に慣れた中国人は、日本の和室にベットがない事が理解できずに布団で寝るんですよと教えられると、地面の上に直に寝ろと言うのか!と本気で怒る人もいるのだそうです。これも文化ギャップですね。

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

調べてみた結果、三国志の時代には、ベットとベンチと椅子の区別はなく、人々は牀という寝具で眠ったり、ソファーのように寛いだり食事を取ったりしていました。牀には長さ2メートル、幅も139センチもある大型の牀もあり、劉備も屈強な関羽と張飛に挟まれても、そんなに窮屈(きゅうくつ)ではなく眠れた事でしょう。

 

参考文献:中国古典様式家具の日本への影響に関する研究

一坐臥具の 牀・榻 ・発を中心 と して

 

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