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趙雲の部下として働いた鄧芝とは何者?大器晩成将軍を考察

2019年12月10日


 

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夏侯淵

 

たまにテレビのドキュメンタリー番組で会社を支えた優秀な上司と部下に関しての特集を見たりすることがあります。筆者は割と好きな番組です。正直言うと取り上げられるのは氷山の一角に過ぎず、世間の大半は上司と部下の関係は上手くいっているとは限りません。表面上だけの関係、下手をすると険悪なパターンもあります。

 

蜀の外交官・鄧芝

 

今回は、正史『三国志』をもとに街亭の戦いで趙雲(ちょううん)の副将として戦った蜀(221年~263年)の将軍である鄧芝(とうし)の生涯に注目してみようと思います。

※記事中のセリフは、現代の人に分かりやすく翻訳しています。

 

自称・皇帝
当記事は、
「趙雲 部下」
などのワードで検索する人にもオススメ♪

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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大将軍になると占われる鄧芝

鄧禹

 

鄧芝は後漢(25年~220年)建国の功臣である鄧禹(とうう)の末裔です。直系の子孫というよりも傍系の中の傍系でしょう。後漢末に蜀に移住したようです。気が強かったらしく思ったことをすぐに口に出す性格でした。そのため知識人とは上手に付き合うことが出来なかったようです。

 

鄧芝は若い時に人相見の得意な張裕(ちょうゆう)という人物に会いにいきました。張裕は建安17年(212年)に劉備(りゅうび)劉璋(りゅうしょう
)
が会見した時に、劉備のヒゲが無いことを小馬鹿にしました。

 

蜀の皇帝に即位した劉備

 

そのことを根に持った劉備は蜀の章武元年(221年)に皇帝に即位した時に、張裕を殺害したのです。劉備のマイナス・ストーリーです。話が脱線したので戻ります。鄧芝は張裕に見てもらうと、「お前は70歳になると大将軍になる」と占われます。超訳すると「大器晩成」と言っているだけです。よくある適当な占いです。鄧芝のコメントが掲載されていないことから、本人も真に受けていないと思います。

 

呉との和睦を成功させる鄧芝

劉備の臨終に立ち会う孔明

 

蜀の章武2年(222年)劉備は呉に討たれた関羽(かんう)の報復を口実に、呉に攻め込みますが陸遜(りくそん)の火計の前に大敗。翌年には亡くなりました。劉備が死ぬ前から孫権(そんけん)は蜀との和睦を望んでいました。だが、劉備が死んだと聞けばコロリと態度を変える可能性がある、と諸葛亮(しょかつりょう)は考えます。

 

鄧芝が孔明にアドバイス

 

悩んでいたところに現れたのが鄧芝です。鄧芝は「呉に対して使者を派遣して友好の意を示した方が良いです」と言いました。諸葛亮はそれこそ自分が望んだ答えだったので、鄧芝に頼んで呉に使者として行ってもらいます。一方孫権は鄧芝を喜んで出迎え、「君の主人が幼いから、ちょっと心配していたんだ。だから、和睦がしづらかったんだ」と大人の対応をしました。

 

鄧芝が孫権を説得

 

鄧芝も「孫権様が(220年~265年)に臣従されるのでしたら結構です。魏は呉に入朝を望みます。ただし、入朝を拒んだ時は魏は呉を逆賊として討伐するだけです。蜀はその流れに乗じて攻撃を仕掛けます」とコメント。

 

1本とられたと思ったのか、孫権は和睦を決めました。呉との和睦は鄧芝の功績が大きかったのでした。

 

占いは当たった!?

北伐する孔明

 

蜀の建興6年(228年)に諸葛亮は魏に対して遠征を開始。諸葛亮の第1次北伐です。鄧芝はこの時、趙雲の副将として従軍しました。小説『三国志演義』では趙雲が高齢化したので、何かあった時の補助として従軍しています。史実も同じと推測されます。

 

山頂に陣を敷いた馬謖

 

さて街亭では馬謖が諸葛亮の命令を無視したので大敗。趙雲と鄧芝は魏の曹真と戦闘開始。残念ながら2人が率いていた兵士は戦闘力が低いのばかりしかおらず、歴戦の猛者である曹真の前に敗北。しかし、趙雲も鄧芝は軍をまとめるのが上手だったので大敗にはならずに無事に帰国することに成功しました。

 

鄧芝は諸葛亮の没後も昇進を重ねていき、延熙6年(243年)に車騎将軍になりました。車騎将軍は後漢の大将軍とほぼ同列です。つまり若い時に張裕が占った内容は、当たったのです。この時、鄧芝の年齢が70歳だったかは史書には記されていませんけど・・・・・・

 

大器晩成になった鄧芝は延熙14年(251年)にこの世を去りました。

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上が趙雲の副将として従軍した鄧芝の生涯でした。ところで、筆者も今から10年前に1回だけ占い師に人相を見てもらったことがあります。大学の時に友人と飲んだその帰りでした。道端に占い師がいたので、酔った勢いで1000円払いました。

 

占い師は私の顔を見ると、「お前は何か分からんけど、スゴイことをするかもしれない。そんな人相をしている。大器晩成型だな」言っていることが全部漠然としていたんです。「スゴイこと」って何ですか?もっと「乱世の姦雄」とか言ってくれないのですかね・・・・・・

 

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赤壁の戦い

 

 

 

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