鄧芝(とうし)ってどんな人?|敵国孫権に愛された蜀の名使者

2015年7月3日


 

 

蜀の歴代使者の中でも特に優秀な使者と言えば、真っ先に鄧芝(とうし)の名が上がるのではないだろうか。鄧芝の巧みな弁舌で蜀と呉は同盟を結び、魏と呉の同盟を決裂。蜀の名使者・鄧芝がどうやって呉との国交を回復させたのか?

 

無名の鄧芝が、いかにして蜀の名使者として出世の階段を登ったのか紹介しよう。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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鄧芝が劉備配下に加わったきっかけ

 

鄧芝(とう し)字は伯苗(はくびょう)。荊州南陽郡新野(現在の河南省南陽市新野県)の出身。後漢の司徒・鄧 禹(とう う)の末裔で後漢末に彼は蜀入り。巴西太守の龐羲(ほうぎ)がよく士を好むと聞いたため、龐羲の元に身を寄せたが、劉備が益州を平定した事から劉備配下に加わりました。劉備が益州を平定後、郫県の食糧貯蔵庫の督に就き、劉備が郫県に訪問し鄧芝と会話したことによって彼の人生が大きく変わるのです。何気なく劉備が鄧芝と会話をしていたら、劉備から「こいつめっちゃ出来るやん」と評価され、次第に中央に入り尚書(しょうしょ)に昇任。蜀の名使者にまでになった劉備の人を見る先見の目はここでも発揮されました。

 

鄧芝はどんな仕事をしていたの?

 

尚書の仕事は、皇帝に対して何らかの意見や事情を伝える際に、上表書を尚書に提出。上奏を皇帝に見せるか否かは尚書が決定する業務です。

 

蜀と呉の危険な関係

 

当時は劉備の義兄弟(関羽と張飛)の復讐合戦(夷陵の戦い)で敗れたばかりで蜀と呉の関係は冷えきっていました。夷陵の戦いで敗れた劉備がショックで亡くなり、彼の息子、劉禅(りゅうぜん)が皇帝に即位しました。

 

劉禅は父・劉備から

「本当にこいつワシの息子か?あまりにも出来が悪すぎる」とため息をつくほどのダメ息子です。

 

そんなダメ息子・劉禅が跡を継いで、すぐに試練が待ち受けていました。

 

劉備の死を聞きつけた魏の名参謀・司馬懿が

「今が蜀を滅ぼすチャンス!息子が即位したばかりで蜀内も混乱しております!周辺諸国と連合を組んで5方面から蜀を徹底的に潰しましょう!」

 

と司馬懿は魏の皇帝・曹丕に相談。そんな中、孫権もまた、魏の曹丕から蜀攻撃を持ちかけられた一人でした。孫権は劉備が生きてる頃にも修復関係を持ちかけるなど模索していたが、義兄弟を殺された劉備は和睦を拒否。蜀と呉は断交状態が続いていました。曹丕率いる魏が呉との同盟を持ちかけてる中、孫権は陸遜に相談。

 

陸遜は「魏には蜀への攻撃を参加すると表明するが、実際は進撃はせず魏の様子を探り時間稼ぎをしましょう」と提案。

孫権も陸遜の提案を採用しました。

 

孔明により蜀の使者として抜擢

 

劉備亡き、蜀は劉備の遺言に従い政務を軍師・諸葛亮に任せる事になりました。魏の蜀侵攻の対策を練っていたところ、鄧芝は「今こそ呉と友好関係を結ぶべき」と主張。孔明も同じ考えを持っていた事から、「鄧芝こそ、呉への使者として相応しい」と判断。鄧芝を蜀の使者として呉に派遣しました。

 

孫権が蜀に異心を抱いてた理由

劉禅

劉禅が2代目皇帝として就いたのが当時17歳。孫権が19歳の頃に亡き孫策に跡を任された時とは理由が違います。幸い孫策の親友、周瑜のお陰で孫権の威信も保てる事が出来き孫家の3代目として軌道に乗せる事が出来たが、君主が当時の自分よりも幼く、跡継ぎの大変さを誰よりも理解しているのは孫権だったでしょう。そんな状況の中、司馬懿による50万にもおよぶ蜀への大規模な軍事攻撃を持ちかけられて、蜀と同盟を結ぶと、魏の矛先が呉に向いてしまうのも恐れていました。

 

呉に到着した鄧芝だが孫権が現れない

 

呉に到着した鄧芝でしたが、一向に孫権は現れません。国勢も弱く君主が幼い蜀との同盟をためらっていた孫権は、鄧芝との会見は乗り気ではありません。更に腹心の張昭は「今は蜀よりも魏と親しくするべきです」と孫権に進言。難色を示していた孫権は蜀との和平に消極的で鄧芝と会おうとしません。

 

そこで鄧芝は、

「私は今回参りましたのは、呉のためになることを願っておりまして、ただ蜀のために来たわけではありません」と孫権に手紙を書き会見を申し入れました。そこで、孫権は鄧芝と会見することを決意しました。

 

油鼎で脅される鄧芝

 

孫権から会見の許可を得た鄧芝でしたが、彼を待っていたのは煮え立った油鼎(釜)でした。孫権は油鼎(釜)で使者を脅そうと考えていました。普通なら臆するが鄧芝は、臆する事もなく、油鼎(釜)を理由に孫権を罵倒。

 

「私は皇帝の使者だから、まだ皇帝ではない貴方に敬礼する必要はありません」と孫権にも敬礼することもなく、呉が蜀と同盟の利を孫権に唱えました。

 

孫権が心配している事を鄧芝が払拭

 

孫権も蜀と和平を結ぶべきと常に考えていましたが、国力が低く君主が幼いので魏につけこまれ安全を保てない事を心配していると鄧芝に伝えました。鄧芝は自信満々に返答しました。

 

鄧芝:「蜀周辺は、山が高く険しい事から守備には最適です。そう簡単に魏に進軍される事はないでしょう。更に諸葛亮など優秀な人材が蜀にはいます」

 

鄧芝:「そして呉には三江の隔てがあります。この蜀と呉の長所を合わせれば魏を討つことも可能です。しかし呉が魏に臣従されるならば、貴方の入朝を望み魏は不当な要求をするでしょう。」

 

鄧芝:「もし魏の命令を断れば呉を逆賊扱いし討伐にやってきますよ。そうなれば我が蜀も好機だと判断し呉に侵攻しましょう。真っ先に呉は滅びましょうな」と力説。

 

孫権は鄧芝の意見を聞いて、暫く沈黙。「君の言うとおりだ」と鄧芝の意見に賛同したが.....

 

油に飛び込もうとする鄧芝

 

鄧芝の力説に賛同した孫権だが、まだ迷っている様子を察した鄧芝は自らの正当性を証明するために、孫権が使者を脅す為に用意した煮えたぎる油に飛び込もうとしました。流石の孫権も慌てて油に飛び込もうとする鄧芝を止め、彼の行動に感服。鄧芝の真っ直ぐな行動に心打たれ、孫権は自ら魏との関係を絶ち、蜀と同盟を結ぶ事になりました。鄧芝は巧みな弁舌でもって蜀呉の窮地を救った瞬間です。

 

孫権、鄧芝が大好きすぎて手紙を送る

 

こうして蜀と呉は同盟を結び友好関係を修復する事に成功しました。その返礼として呉も張温を使者として蜀に送りました。蜀も再び鄧芝を呉に派遣させ、孫権と再度会見を行う事になり、孫権が「もし魏を滅ぼしたら呉と蜀の君主が国を分けて治めような」と言いました。

 

その意見に対し鄧芝は、

 

鄧芝:「いやいや、何をおっしゃるのですか。そもそも天に2つの太陽はありません。地に2人の王はいませんよ。魏を滅ぼしたら今度は蜀と呉が争うことになるでしょう」と答え、孫権もあまりにも真っ直ぐな鄧芝の意見に大笑いしました。

 

その後、孫権は諸葛亮に「呉と蜀が和睦できたのは鄧芝のおかげだ」と手紙を送り賞賛しています。呉に使いして以来、孫権からは鄧芝の安否を気遣う手紙や贈物があったそうです。鄧芝のような賢者が蜀にいた事が孫権には驚きのようですね。敵国の使者の安否を気遣い贈物を送る孫権の行動には愛を感じられます。

 

鄧芝の最期

 

呉と復交に成功した鄧芝は外交官としても才能を発揮しましたが、将軍としても才能を発揮しました。趙雲の副将についたり諸葛亮に付き従っていましたが、諸葛亮の北伐にも従軍するが251年死去。政治家・外交官・将軍として結果を残した鄧芝でしたが、自身は質素倹約に努めて財産を増やす事を考えてなかった事から、死んだ時には家には財産もなく残された妻子は寒さや飢えを余儀なくされました。

 

鄧芝は実際どんな人だったの?

 

意志が堅く士人とうまく付き合えなかったそうです。人を高く評価する事も少なかったが、何故か姜維の才能は買っていたようです。鄧芝は、70歳を越えており、諸葛亮より年上であった事が確認できています。実は鄧芝が無名の頃に、人相がよく当たる評判の張裕に人相を見てもらうと「君は70歳を過ぎた頃に大将軍となり、侯に封ぜられるよ」と言われました。当時は短寿命ですから70歳に大将軍となると聞くと本人はどう感じたんでしょうね。私でしたら「遅咲きにも程があるだろう!!」と嘆くかもしれません。

 

それにしても私は、外交官として手腕を振るい歴史に名を残し、敵国の孫権に愛され長寿を全うした鄧芝という人物に惹かれてしまいました。愚直だけど賢く巧みな弁舌が出来る外交官が我が日本にも現れて欲しいですね。

 

 

 

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otoboke

数々のブレストと思いつきで場を散らかした後、権限委譲と言い放ち、kawauso編集長に丸投げし去っていく。インターネットの不特定多数無限大の可能性にロマンと情熱を捧げる「はじめての三国志」の創設者。創造的で自由な発想が称賛や批判を創発し、心をつかむコンテンツになると信じている。各メンバーのパーソナリティを尊重し、全員の得意分野を活かし、補完し合うチーム作りを目指している。

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