三国志演義における主人公の一人劉備や関羽の義弟張飛、そんな彼の体格はムキムキマッチョの一言に尽きます。張飛の容貌は豹頭環眼 燕頷虎鬚とあり、豹の頭、どんぐり眼、燕のアゴに虎のヒゲと描写されており、見るからに強そうです。
しかし、正史においての張飛は声が大きいのと目をいからせだけが記録されているものの、それ以外のルックスについては分かりません。それは正史の関羽がヒゲ殿と呼ばれ美髯を自慢していたのとは対照的です。
つまり張飛の体格の描写は、その後三国志演義の成立にかけて整備されたと考えられますが、その描写にはトルコ人の要素が混じった可能性があります。
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張飛の体格はトルコ人に酷似する
張飛がトルコ人という根拠は、およそ漢民族らしくない張飛の体格、というより顔形の描写があります。豹の頭、どんぐり眼、燕のアゴに虎のヒゲというのは、どうも漢民族風じゃない顔形だからです。
逆に、豹頭環眼 燕頷虎鬚がしっくりくる民族もいます、鮮卑族というトルコ系の人々で、その姿は唐三彩の胡人俑に残ります。下記はそのイラストですがいかがでしょうか?胡人俑の表記がないなら、これを燕人張飛と言っても違和感はないのではないでしょうか?kawausoはNHKの人形劇三国志の張飛を連想してしまいました。
同じような顔の描写は水滸伝の登場人物の豹子頭林冲にもありますが、それはさておき、どうして三国志演義の張飛は漢民族ではなく、トルコ人の顔として描写されたのでしょうか?
張飛の故郷涿郡はおよそ400年異民族の支配にあった
燕人張飛と呼ばれるように、張飛は戦国七雄の燕の領地幽州涿郡に誕生しました。
ここは魏の文帝、曹丕の時代に范陽郡と改名され、西晋では范陽国が置かれ、五胡十六国の時代には羯族の後趙、鮮卑族の慕容部氐族の前秦など、様々な異民族が入り乱れました。
その後、涿郡は幽州になったり、范陽郡になったりしながら、唐の中期には安禄山の領地として反乱の根拠地となり五代十国の時代の936年、テュルク系の沙陀族の王朝である後晋の高祖、石敬瑭により燕雲十六州として契丹族が興した遼に割譲されます。かくして涿郡は漢族の勢力圏から分離され、文化の混淆と混血が進むのです。
その後、北宋の太祖、趙匡胤が燕雲十六州を取り戻そうと遼に挑むものの果たせず、1123年から靖康の変までの3年を別として明の朱元璋がモンゴルを北に押し返すまでの400年間、燕雲十六州は漢族のテリトリーではありませんでした。4世紀に渡り、異民族に支配されていた涿郡、それが三国志演義の張飛像に決定的な影響を及ぼします。
異民族の文化に影響された漢兒
異民族遼の支配下の涿郡で生まれた漢族は漢兒または漢人と呼ばれるようになります。
これは遼の時代には遼の統治下にある漢族を意味し、金の時代には金の支配下にある漢族の中でかつての遼の支配地域出身という意味になりました。どうして、漢族でありながら細かくカテゴリ化されたかと言うと、この漢兒、遊牧民契丹の支配下で誕生した影響で相当程度、胡化していたからです。具体的には
①武を重んじ騎射に巧み
②各地の言語に通じ胡服を着る
③最先端の契丹ヘアーでキメっ!
④契丹名を漢族名と併せ持つ
⑤条件次第で裏切り信用できない。
というような特徴がありました。
さらに、言語も変化、漢兒、契丹、女真、渤海、諸族の共通語として漢兒言語と呼ばれた口語漢語を使い、これはアルタイ語の影響を受けた相当にブロークンな漢語として聞こえたようです。そして、同時代には、漢兒という言葉と共に燕人という言葉も同義語として広く使われていました、張飛のトレードマークの燕人は漢兒のイメージかも知れません。
燕人張飛のモデルは漢兒の私兵団
さて、漢兒の特徴の多くは、三国志演義の燕人張飛にもあります。特に張飛は武勇に秀でていて、ブロークンな庶民の口語で話すというのはピッタリ一致します。もう一つ、漢兒・燕人は、元々漢族でありながら異分子である事から、遼でも金でも北宋でも、身分が低く抑えられていて、庶民階層の人々が力で私兵をまとめて、宋や金に傭兵として仕えていました。これも、身分の低い肉屋で土地などの資産を持つという三国志演義の張飛の設定に被ります。
また、どんぐり眼に虎髯、燕のようなアゴという、よく考えると漢民族っぽくない張飛の特徴も、涿郡が鮮卑や氐、渤海、羯族のような異民族混淆の地であった事を考えると納得がいきます。三国志演義の第十四回、曹孟徳、駕を推して許都に幸し呂奉先、夜に乗じて徐都を襲うでも、曹豹が逆恨みで張飛に鞭うたれたのに腹を立て、娘婿の呂布を唆して挙兵させ張飛を襲った時に、張飛は虚を突かれ為す術なく配下の燕の十八騎将に守られ東門から逃げたとあります。
これも、私兵団を率いて傭兵として身を立てていた漢兒の特徴を三国志演義の張飛像が色濃く継いでいる部分と言えるでしょう。
漢兒に崇められた張飛
さて、遼、金、元の時代、異民族の支配下にあった燕雲十六州に住む漢兒に取り張飛は、漢族の天下を回復しようとした劉備の義弟の位置づけから郷土の英雄として尊敬されていました。
例えば、金と宋の間を渡り歩いた張恵という漢兒は、張飛を尊敬し賽張飛(張飛もどき)と名乗ったと宋史李全伝上の記述に出てきますし、金からモンゴルに降った張柔という人物も、涿州定興県の農家の生まれでチンギスハーンの侵攻後に大混乱に陥った故郷で自警団を組織して頭角を現した軍閥でした。
張柔は後に金からモンゴルに降りますが、その過程を張飛に降った厳顔のようだと記述されたり、部下から同じ張氏なのだから将軍が張飛将軍の末裔と名乗っても罰は当たらないと、おべっかを使われてそいつを心底軽蔑した事が書かれるなど張飛にまつわる話が多く出て来ます。彼らが生きていた時代、すでに三国志は講談として完成していました。劉備が傭兵団の長として、あちこちの群雄の客将になりながら戦塵に塗れつつ、やがては諸葛亮を得て蜀帝になるストーリーは、ほぼ漢兒傭兵の彼らの実体験に重なったのです。
もっとも蜀漢正統論により皇帝と崇められた劉備に、自らを重ねるのはさすがに不遜なので配下であり、庶民の出自である張飛に気安さを感じ自らを重ねたのではと推測します。
三国志ライターkawausoの独り言
意外ですが三國志演義において、燕人と称されるのは張飛一人です。これは、よく考えると不思議な事で、同じく涿郡出身の劉備、簡雍、盧植、公孫瓚、程普、韓当と、涿郡、或いは広く幽州出身者は多くいながら燕人呼称は張飛のみなのです。
つまり、そこには単に地名ではなく燕という言葉にそれ以外の意味が込められた証とも言えます。それが五代十国の時代から明の時代まで、およそ4世紀もの間、漢族の領域から切り離された燕雲十六州、そして、そこで活躍した胡化した漢兒につけられたアイコンだとすると、三国志演義の張飛が混血の漢兒に尊敬され、讃えられた痕跡を見出す事が出来るように思います。
張飛のべらんめえな口調や、どんぐり眼、虎のヒゲや燕のように角ばったアゴは、ただトルコ人の顔の造形であるだけでなく、燕雲十六州に割拠した漢兒を代表した体型や顔なのです。
参考文献:「漢兒」なる張飛――金末の張飛人気と「燕人」の来源上原 究一
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