公孫瓚は後漢(25年~220年)末期の群雄です。
盧植門下の学生であり劉備の同級生でもあります。群雄としては早めに頭角を現しますが、袁紹と争って最期は討たれました。公孫瓚はどんな人物でしょうか?今回は正史『三国志』をもとに公孫瓚について紹介します。
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顔だけで盧植の塾に入門?
公孫瓚は遼西の出身であり家は代々郡太守でした。彼は家柄は悪くなかったのですが、母親の身分が低かったらしく、幼少期から青年期にかけて苦労しました。時代劇なんかによく出てくる話です・・・・・・成長した公孫瓚は役所の下働きをしていますが、美男子で利口だったので上司の侯太守が気に入って娘をやり、盧植の塾の学費を提供してあげます。
盧植は当時、大人気の塾講師です。現代で例えるのなら、東進ハイスクールの林先生でしょう。盧植の塾で公孫瓚が知り合ったのは後の蜀(221年~263年)の初代皇帝である劉備でした。正史にはサボっていたと記述が無いことから、劉備とは違って真面目に勉強していたようです。
劉虞・袁紹との対立
公孫瓚が対立したのは劉虞でした。劉虞は漢(前202年~後220年)の一族の1人です。劉虞は史料の多くが誉め言葉で飾られています。
劉虞は慎重な人物であり異民族に保護政策をとって彼らを味方につけました。一方、公孫瓚は異民族を積極的に攻撃するスタイルの人物。人気はどちらに行くのかすぐに分かります。
袁紹と韓馥は初平元年(190年)に献帝に対抗して劉虞を皇帝にしようと画策したこともありました。これは劉虞が反対したので頓挫になります。
一方、朝廷も公孫瓚に劉虞の指揮に従うようにと命じますが、公孫瓚は保護政策重視の人物の言うことなんて聞きたくありません。初平2年(191年)には袁紹は韓馥を脅して冀州牧の地位を手に入れますが、董卓は信任の壺寿を派遣、公孫瓚も厳綱を任命します。
怒った公孫瓚は袁紹と界橋で戦いますが、結果は敗走。どうしようもないので劉虞は朝廷に訴えでますが、董卓が殺されて混乱した長安の朝廷では解決は到底困難。初平4年(193年)に劉虞は公孫瓚を自ら攻めることにしました。この時、公孫瓚は留守でした。普通ならば公孫瓚が負けてもおかしくないのですが、劉虞の兵は戦ったことがほとんどないので公孫瓚に逆転負けします。こうして劉虞は公孫瓚に討たれてしまいました。
戦後、とんでもないことが発覚します。劉虞は質素倹約の聖人君子として有名でしたが、死後に屋敷を家宅捜索したところ、大量の金銀財宝が出てきたのです。つまり、劉虞の異民族保護政策も質素倹約も政治パフォーマンスだったのでした。昔から、この手の行いはあったのですね・・・・・・
公孫瓚の最期
さて劉虞の死ぬと、彼に世話になった異民族が公孫瓚に対して報復に出ました。どうにか撃退するも、公孫瓚は人工の物見やぐらを何十も建造して、周囲を三重の城壁で囲んでしまいます。
もはやマンガに出てきそうな要塞です・・・・・・公孫瓚は一番高い楼閣で妾と一緒に暮らして、部下が持ってくる文書もロープでたぐり寄せる始末。文書決済後は妾が決済の内容を大声を張り上げて伝える・・・・・・かつての利口だった彼の公孫瓚の姿は見る影も無い。
建安4年(199年)に公孫瓚を真正面から攻めても無駄と感じた袁紹は、地下道を掘って要塞の攻略にかかります。袁紹の計略は見事に的中。内部に侵入した袁紹軍の前に公孫瓚は、どうしようも出来ませんでした。妻子を殺害した公孫瓚は自害して果てました。一説には、自害しようとしたところを袁紹軍に殺されたようです。
三国志ライター 晃の独り言
公孫瓚はイケメンだったことが幸いして出世した人です。「人は目ためが9割」という言葉を聞いたことがあります。公孫瓚は、それを実際に証明した人でもあります。
だが、その強みを最大限に生かすことなくこの世を去ってしまいます。せめて曹爽に仕えた何晏のようにオシャレをすることに磨きを入れれば人生が変わったかもしれませんね(笑)
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