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【麒麟がくる】明智光秀は本当に土岐一族なの?

2020年1月21日


 

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裏切りそうな悪い顔をしている明智光秀

 

本能寺の変の直前の愛宕百韻(あたごひゃくいん)で、「ときは今 あめが下しる 五月哉(さつきかな)」と発句を詠んで、土岐氏が織田信長(おだのぶなが)に代わって天下を取ると宣言したとされる明智光秀(あけちみつひで)。この事から、光秀が土岐氏(ときし)である事は疑いないとされてきましたが、最近の研究では光秀は土岐氏を自称していたか、土岐氏の傍流(ぼうりゅう)ではないかという説も浮上してきました。では、光秀は本当に土岐一族だったのでしょうか?

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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美濃の有力者であった事は疑いない

西遊記巻物 書物

 

後世に編纂(へんさん)された系図によると、光秀は室町時代に美濃国の守護を務めた土岐氏の支流で可児郡明智城(かにぐんあけちじょう)(岐阜県可児市)を本拠にする明智氏の出身とされています。事実として、同時代の立入宗継(たてりむねつぐ)が書いた立入隆佐記(たてりりゅうさき)にも、「美濃国住人、土岐の随分衆(ずいぶんしゅう)なり」とあります。

 

煕子(明智光秀の妻)

 

また、光秀の正室は、美濃国土岐郡妻木(つまき)を本拠とした妻木氏の出身と考えられるので、土岐氏かどうかは置くとして、光秀が何のバックボーンもない、ただの素浪人(すろうにん)であれば、さすがに土岐郡に本拠地を持つ妻木氏が嫁を与えるとは思えないので、光秀が美濃の有力者の出身であった事は間違いなさそうです。

 

土岐氏流明智氏は実名に「頼」字を使う

 

 

では、明智光秀は土岐氏に連なる明智氏なのかどうかという話ですが、これがかなり怪しいようです。そもそも、土岐氏一門の明智氏は、鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇を中心とする建武政権から美濃国の守護に任命された土岐頼貞(ときよりさだ)の孫の明智頼重(あけちよりしげ)に始まります。土岐氏琉明智氏は、この明智頼重から始まり、室町時代には幕府の外様衆(とざましゅう)に編成されたり、幕府奉公衆(ほうこうしゅう)なども務めていました。この土岐氏流明智氏は名前の頭に例外なく、頼字がつくのが特徴ですが、明智光秀も、その父とされる光国(みつくに)光綱(みつつな)光隆(みつたか)のいずれも光字であり、頼がつかないのです。

 

明智光秀(麒麟がくる)

 

そもそも、光秀の父とされる人物は複数存在し、履歴も定かではないので、実際には光秀の履歴を元に創作された可能性すらあります。つまり、光秀が確かに土岐氏支流の明智氏の出身であるという確かな証拠はありません。

 

麒麟がくる

 

光秀は明智氏なのか?アカの他人か?

明智光秀 麒麟がくる

 

光秀が確かに明智氏であるかどうか不明という事になると、全くの赤の他人の美濃の有力者が名門明智氏を詐称したか、あるいは、土岐氏の傍流がインパクトを求めて、名門の明智氏を名乗った可能性があります。その辺りはどうなのでしょうか?それについては、「光源院殿御代当参衆幷足軽以下衆覚(こうげんいんどのみよとうさんしゅうならびにあしがるいかしゅうおぼえ)」と題された史料があります。これは、足利義輝・足利義昭の時代に足軽衆として仕えていた武士の名前が記された史料で、ここには足利義昭に仕えていた足軽衆の中に明智の名前が見えます。

 

ここから、光秀は室町幕府に仕えていた、由緒ある明智氏の一員という考え方も出来るのですが、この足軽衆は創設が遅く、戦国時代になってから、元々将軍の直臣ではなかった低い身分の人々が抜擢される形で構成されたようです。本当に光秀が土岐氏一門の明智氏なら、身分を主張して足軽衆ではなく、外様衆や奉公衆に位置付けするように直訴してもよさそうですが、何故か光秀が抗議した形跡はありません。つまり、光秀は明智氏ではなく土岐氏の傍流であったか、土岐氏とも無関係な美濃の有力豪族の子弟であったとも考えられるのです。

 

土岐氏の明智定政と混同した可能性

 

実は、戦国時代の明智氏には、光秀と同時代に活躍した明智姓の武将がいます。

その名を明智定政(あけちさだまさ)と言い、父の明智定明は後世の系図では光秀の父、光隆とハトコ同士の関係性になっています。

三国志のモブ 反乱

 

さて、この明智定政の父、明智定明(あけちさだあき)は、美濃守護の土岐頼芸(ときよりなり)に仕えていたものの、斎藤道三(さいとうどうさん)との争いに敗れて戦死。幼かった定政は、母の実家である菅沼氏がある三河で成長し、後に徳川家康の家臣になり、菅沼藤蔵と名乗り、甲斐国切石に領地を与えられ、明智定政と改名しています。江戸時代に造られた明智光秀の一代記である明智軍記には、若い頃の光秀が斎藤道三に仕え、弘治二年(1556年)道三と仲違いした斎藤義龍の軍勢に攻められて、城を落ち延びていく場面が描かれていますが、この逸話は明智定政の父が斎藤道三と戦い戦死したという話が誤って伝えられ混同したのかも知れません。

 

瓦礫沈淪の言葉の意味

明智光秀

 

明智光秀は、天正九年に明智軍法という光秀の配下が厳守すべき十八条の掟を定めていますが、その最後に自分を引き上げてくれた信長に対する感謝を綴っていて、恩義に報いる為には粉骨砕身(ふんこつさいしん)して働かないと、穀潰(ごくつぶ)しのレッテルを貼られるぞ発破(はっぱ)をかけていますが、そこには瓦礫沈淪(がれきちんりん)という言葉が出て来ます。これは水中に沈んだ瓦のような取るに足らないモノという意味です。

 

織田信長

 

しかし、光秀が名門土岐氏の支流である明智氏の出身なら瓦礫沈淪などという、余りにも低い評価を自らにつけるでしょうか?もちろん、敢えて自身を取るに足らないモノと形容する事で、それを引き立ててくれた信長の偉大さを演出したとも考えられますが、素直に大した家柄ではなかった光秀の本当の家柄について吐露しているとも取れないでしょうか?

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

 

戦国時代が下克上の時代であった事は事実ですが、実際の実力と名家であるか否かは別の問題でした。斎藤道三を討った斎藤義龍(さいとうよしたつ)が室町幕府より一色姓(いっしきせい)を名乗る許可をもらっているのも、一色氏が戦国時代の実力は皆無ながら室町時代以来の名家だからです。

 

暗号を使う上杉謙信

 

上杉謙信(うえすぎけんしん)が、わざわざ二度も上洛し、有名無実の関東管領(かんとうかんれい)の職を得たのも、関東管領の名前が持つ重さあっての事であり、いかに実力主義の社会でも出自は重要なアドバンテージでした。光秀も、その家名の重さにあやかろうと美濃出身である事にかこつけて、土岐氏流明智氏を名乗ったとしても不思議はないのかも知れません。

 

参考文献:歴史REAL明智光秀 光秀とは何者なのか?ここまでわかった「天下の謀反人」の実像

 

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はじめての戦国時代

 

 

 

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