小説にマンガ、ドラマ、映画とさまざまなメディアのテーマになっている三国志。『三国志演義』をベースにしたコンテンツは今も次々と誕生しています。でも実は、すでに江戸時代に「三国志ブーム」があったというのをご存じですか?
私たち日本人と三国志との長い付き合いの始まりを紹介しましょう。
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『三国志演義』到来
1300年代の後半に羅貫中によって作られたとされる『三国志演義』。日本にはいつごろやってきたのでしょうか。江戸時代の漢学者林羅山の所有する漢書の目録の中に、『西遊記』などと並んで『三国志演義』の文字があります。
林羅山は1583年から1653年に生きていた人物なので、江戸時代初期にはすでに『三国志演義』は日本にあったんですね。ただ、これは「輸入盤」の原書なので、中国語のまま。『通俗三国志』として日本語版に翻訳されたのは1692年。「湖南文山」という人が隠居後に訳したものです。
江戸時代の各種エンターテイメントで大人気
翻訳された三国志はたちまち江戸の庶民の間で人気を博します。有名浮世絵師が絵を描いた絵入りの『三国志演義』が刊行され、それを日本風にアレンジした洒落本も数多く出回りました。また歌舞伎や浄瑠璃などの演劇の項目になっています。歌舞伎では五丈原の戦いが演じられたという記録が残っています。
中国ブームに沸いていた江戸時代
どうして三国志がそれほど人気だったのかという背景の1つに、中国ブームが挙げられます。鎖国が始まり、外国の文化がシャットアウトされた江戸時代。そんな中、出島での貿易が許されていたのがオランダと中国でした。外国の文化に触れられる機会が極端に減ってしまった中で、お隣の中国の書籍に対する需要が一気に高まったのでした。
現代の日本人が英語を趣味やスキルアップに学んでいるように、江戸時代には中国語を勉強する人が増えていました。そして私たちが海外の映画や小説に興味を持つように、当時の人たちは中国の文化に以前より関心を抱くようになりました。
その結果、『三国志演義』を始め、『水滸伝』や『西遊記』などの中国小説が庶民の間で流行したのでした。壮大な中国大陸を舞台にした小説に、人々は魅了されたことでしょう。
しかも三国志の時代の日本はまだ卑弥呼のいた弥生時代でした。そのころに数十万という兵士がぶつかり合い壮絶な一騎打ちを行い、陰謀や策略が渦巻いていた世界。きっと江戸の人たちを熱狂させたことでしょう。
「演義」ならではの人気の理由
そうした中国ブームの下地があったので、三国志も人気になったのでしょうが、もうひとつ『三国志演義』ならではの理由もあったようです。それは、正史の『三国志』と『三国志演義』の違い。正史の『三国志』は曹操が主役なのに対して、『三国志演義』の主役は劉備であることです。
日の出の勢いで中国大陸の半分を支配してしまった曹操に比べ、貧困の身から放浪を続け、ようやく蜀という国を持つ劉備。一般市民としてはどちらの方に感情移入しやすいかは明らかですよね。おまけに劉備は仁徳を備えた篤い庶民の味方。
関羽や張飛との義兄弟の契りもポイントが高かったのでしょう。漢王朝の末裔(まつえい)というのも日本人にはぐっとくるところかもしれません。正史とはちょっと違うキャラクターの劉備だったからこそ、日本人の共感を呼んだのかもしれませんね。
三国志ライターたまっこの独り言
なんとなく現代になって日本のに定着したように思える三国志ですが、実は400年以上も前に先輩方がいらっしゃったんですね。そして彼らにも同じようにお気に入りの武将やシーンがあったのだろうと想像するとなんだかにやけてきてしまいます。
参考文献
「日本人と『三国志演義』--江戸時代を中心として」 関西大学中国文学会紀要 井上泰山
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