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【戦国グルメ】明智光秀も食べた宴会裏メニューを紹介

2020年1月27日


 

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宴会好きな豊臣秀吉

 

一世紀以上も続く戦乱の戦国時代、さぞかし毎日、毎日戦争で人々はyourshockな夢も希望もない日々を送っていたかと思いきや、銭はある場所にはあるもので、贅を凝らした料理が振る舞われる大宴会も存在しました。NHK大河ドラマの主人公である明智光秀も、出世する間に、このような大宴会を主宰し宴会裏メニューを楽しんだようです。今回は光秀も信長も秀吉も楽しんだめちゃウマ宴会飯を紹介します。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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天正六年坂本惟任日向守会の豪華な料理

織田信長

 

天正六年(1576年)正月、光秀は主君織田信長(おだのぶなが)から八角釜(はっかくがま)という名器を下賜(かし)されます。当時の茶の湯は、信長に許された限られた人しか開く事が出来ず、それは、文人や茶人を含め、羽柴秀吉(はしばひでよし)丹羽長秀(にわながひで)荒木村重(あらきむらしげ)滝川一益(たきがわかずます)のような軍団長クラスを務める十二名の選ばれた人だけでした。

 

お茶を楽しむ明智光秀

 

もちろん、この十二名に光秀は入っていて、それから十日後、居城である近江坂本城で光秀は豪華な茶会を開催します。それは坂本惟任日向守会(さかもとこれとうひゅうがのかみかい)と呼ばれました。ここでのメインは、信長から下賜された八角釜ですが、ただ、お茶を飲んで終りではなく、贅沢と粋の限りを尽くした豪華な料理が並びました。

 

(ふな)(なます)

生靏汁(なまつるじる)(信長が鷹狩りで獲った新鮮な物)

③スルメと鰹節の和え物

④初物のタケノコご飯

(うずら)の丸焼き

土筆(つくし)とウドのおひたし

薄皮饅頭(うすかわまんじゅう)

⑧ローストした(かや)の実

素麺(そうめん)(山椒の粉をまぶす)

芹焼(せりやき)(芹を煮た汁)

⑪ウケイリ(魚のすり身の吸い物)

⑫味噌、山椒、ムキ栗、金柑

 

 

いかがでしょうか、鮒の膾から始まり、(つる)の汁、旬のタケノコ、ウズラの丸焼き、魚のすり身、当時としては珍しい砂糖の入った餡入りの薄皮饅頭までなかなか美味しそうですね。また、料理でないので割愛しましたが、御品書きには、料理を盛りつけた皿に至るまで名品であった事が記されています。もちろん、これを調理したのは一流の料理人であり、宴会に参加した人々は当時の日本で味わえる最高峰の和食に舌鼓を打った事でしょう。

 

光秀が召し抱えた戦国の料理の鉄人

 

戦国時代で最も洗練された豪華な料理を提供した光秀には、戦国の料理の鉄人とも言うべき、人物が仕えていました。それが、進士作左衛門貞連(しんしさくざえもんさだつら)と言う人で、彼の父である進士晴舎(しんしはるいえ)は「内膳頭(ないぜんがしら)」と呼ばれる室町幕府の有力御家人で将軍足利義晴(あしかがよしはる)に仕えた料理の鉄人でした。彼の仕事は、室町将軍が有力な守護大名の家を訪ねる「御成(おなり)」の際に大勢の招待客の献立を古式に則った配置で考えるという大変なものでした。

 

 

その晴舎の息子である貞連も、幼い頃から室町時代最高の料理を仕込まれた料理の鉄人だったという事なのです。また光秀自身も土岐系圖(ときけいず)という史料では、進士晴舎の弟で四男とされている事から、光秀も料理には一家言あったと考えられています。それにしても光秀は、医学にも知識があり、料理も詳しいとは、かなりのマルチプレイヤーですね。

 

麒麟がくる

 

宴会の締めの裏メニュー

 

 

しかし、当時の宴会には表のお品書きには記されていない知られざる裏メニューがありました。どうして、それが表のお品書きに記載されなかったのか、それが食べ方が(いささ)か下品だったからです。当時の宴会は、なかなか古式にのっとった箸の上げ下げまでも細かく規定された窮屈なものでしたが、それも一通りのセレモニーが終るまでの事であり、酒が入って宴が果てると、招待された人々は「おい、姫飯(ひめいい)(白飯)くれ」と要求し、そこに食べ残した靏やら鶉やら、魚のすり身やら、土筆とウドのおひたしをぶち込んで、お茶を掛け一気に啜り込んだのです。

 

 

ラモス瑠偉(るい)が、CMで「日本人ならお茶漬けだろう!」というより400年も前から日本人は、あらゆる食材を白飯にぶち込んでお茶を掛けた汁掛け飯が大好きだったのです。でも、こういう戦国武将の気持ちわかるような気がしますね。改まった席でフランス料理や、京懐石やイタリアンを行儀よく食べた後、帰りは駅前のラーメン屋でチャーシュー面を啜りながらビールを流し込む、アレに似ています。

 

日本の裏メニューを残したルイス・フロイス

宣教師 ルイスフロイス

 

戦国の日本人が、本当はどんな料理よりも美味しいと感じながら、下品だからと記録に残さなかった宴会の締めの汁かけ飯。その存在を後世に伝えたのは日本人ではなく、ヨーロッパからやってきた宣教師ルイス・フロイスでした。当時の日本人には当たり前の事でも、外国人であるフロイスにとっては、見るもの、聴くもの全てが珍しく記録に残すに足りるものでした。宴会の締めに汁かけ飯を食べる習慣も、フロイスによって記録されたのです。

 

幕末 魏呉蜀 書物

 

もうひとつフロイスが記録に残した奇妙な日本の食事の習慣があります。それは、日本では汁ものを頂く前には、必ず舌でくちびるを湿らせておかねばならないという一文です。西洋のスープと違い、日本では汁物は熱々である事が喜ばれ、各自が息を吹きかけながら冷まして食べるのが当たり前でした。

 

セミナリオ(教会)

 

しかし、そんな習慣がない西洋人は、熱々の汁物を冷まさずに口に運び、口の中を火傷し、唇の皮がむけてしまうという失敗をやっていたのです。そこで、フロイスは日本で汁物を飲む際には、あらかじめ舌で唇を湿らせておけば、唇の皮をむかないで済むと報告書の中に記録しました。つまり、裏を返せば当時の日本人は、汁物を飲む前に全員が、舌でペロッと唇を湿らせていた事が分かるわけです。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

戦国時代の裏メニュー、汁かけ飯について紹介してみました。

 

テレビを視聴するkawauso編集長 ver.2

 

一見、礼儀にうるさいように見えて、酒が入るとなあなあになるのは、今も昔もあまり変わらないような気がしますね。でも、当代一流の料理人が精魂込めて作った料理を最終的に白飯にぶっかけてお茶を掛けて食べるのは、色々な意味で最高の贅沢だと思います。

 

参考文献:歴史REAL 明智光秀 光秀とは何者なのか?ここまでわかった「天下の謀反人」の実像

 

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