織田信長を巡る謎の一つに武家の頂点である征夷大将軍を望まなかったというものがあります。それまでの鎌倉幕府、室町幕府が権威の拠り所にし、全国の武士をまとめる羨望の役職だった征夷大将軍をなぜ信長は望まなかったのでしょうか?
実は織田信長は、武士の時代を破壊し中央集権国家を造ろうとしていたと言うのです。
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この記事の目次
経済を突き詰めた信長の究極の答え
戦国時代日本は封建制の時代でした。封建制を分かりやすく言うと全国各地に独立した領地を持つ勢力が存在しローカルルールで領地を排他的に統治しつつも、武家の棟梁である幕府に土地の支配権を保障してもらい従っているという状態です。
このような状況では幕府の力は弱くならざるを得ません。なにせ部下に恩賞として土地を与え排他的な支配を認めるという事は、部下に与えた土地から上る年貢は幕府には入らない事を意味するからです。もうひとつ経済的に見ても封建制だと、各地の領主の排他性が邪魔をし全国一律の経済ルールを作る事が出来ず、商品流通や人の移動に制限が掛かる事になります。
楽市・楽座を各地に配置したり、関所を撤廃したり、幹線道路を拡大したり、全国に金貨・銀貨を流通させる土台を作った合理的な信長から見れば、武士が活躍する封建制は、中央政府の力を弱め、商品流通の足かせになる遅れた制度に過ぎませんでした。
そこで信長はこう思ったのです。
「使えんなら潰してしまえ武士の世を」
太政大臣になり王政復古を夢見た織田信長
武士の世を破壊して中央集権の世界をつくるにはどうしたらいいのか?
信長は考えた末、藤原氏が台頭する前の天智天皇期の中央集権国家に日本を戻そうとします。すなわち王政復古です。そのため、織田信長は征夷大将軍の地位は望まなかったのに朝廷の官位は欲しました。最終的に信長が求めたのは太政大臣で、これは、この頃武家では平清盛と足利義満しか得ていない官位でした。
このように書くと、朝廷の官位なんか権力を握れば、向こうから幾らでも贈ってくるので、信長は欲しくもないが取り合えずで受け取っただけではないか?と疑問に思う人がいるかも知れません。しかし、実際の官位はそれほど軽いものではなく時の権力者が欲しないなら、朝廷から強引に授けるという性質のものではありません。
その証拠に管領として、足利義稙を京都から追い出して将軍を挿げ替えた細川政元でさえ官位は従四位下でしかないのです。どうして、こんなに低いのか?理由は簡単で政元は管領職には執着しても朝廷の官位には関心がなかった為です。政元が欲しないから朝廷は官位を授ける事が無かったのです。
ところが信長は違いました。武士としての頂点である征夷大将軍ではなく、太政大臣の地位を求めたのです。その証拠には、羽柴秀吉が本能寺の変の直後に毛利輝元へ送った書状で信長の官職を唐名の太政大臣である大相国と呼んだり、信長の死後に朝廷から送られた文書に重而太政大臣とあり太政大臣を重ねて贈られたという意味である事でも明らかです。
ちなみに明治維新でも国会成立前の太政官制では、最高の官職が太政大臣で三条実美が就任していました。織田信長は太政大臣に就任して実権を握り、武士の世界の象徴である封建制を崩して、中央集権制の社会に日本を作り変えるつもりだったのです。
国替えは中央集権制への地ならしだった
織田信長が明智光秀に叛かれた原因に部下に対する過酷な処置があります。例えば、信長は父の時代からの重臣、佐久間信盛父子を石山本願寺戦でろくに手柄がない事を理由に十八条の折檻状を送りつけ、領地を没収して比叡山に追放したり、明智光秀の丹波と近江の領地を取り上げて、代わりにまだ毛利の領地である岩見・出雲を与えるとしたという記述が明智軍記に出てきます。
確かに、作戦に失敗したならともかく、手柄がないだけで先祖代々の領地を奪われた佐久間父子や血の滲む努力で近江と丹波を領地にした光秀からすれば、信長の非情な措置が許せないのも仕方ないでしょう。
しかし、信長からすれば、領地は部下に与えたものではなく貸し与えただけに過ぎません。それが中央集権の考え方であり、軍団も領地も天下統一に必要だから有能な部下に一時的に貸しているだけなのです。「愛着をもっているのは勝手だが、必要次第で取り上げたり、配置換えするのがそんなに気に入らないのか?」というのが信長の意識だったのです。
それは、奈良から平安にかけての中央集権期の大和朝廷と同じで朝廷が国司として美濃に貴族を派遣してもそれは美濃を領地として与えたのではなく、一時美濃の政治を任せただけになるのと同じでした。
中央集権を破壊して生まれた武士が信長を破壊した
織田信長は尾張の大名だったかなり早い時期から、中央集権的な方策を取っています。羽柴秀吉や柴田勝家のような織田家の古参は度々、領地替えの憂き目に遭いますが、それを渋々受け入れて移動していきました。
しかし、明智光秀や荒木村重のような途中採用の武士には、頻繁な領地替えは耐えがたい苦痛でした。そもそも武士は、寺院や大貴族が排他的に荘園を支配する為においた暴力集団であるサムライを先祖にしています。つまり国家の自由にならない私有地に執着する事が一所懸命の武士のアイデンティティなのです。
その土地を簡単に国替えという理由で取り上げられるのは、合理主義者の信長には理解できないような苦痛だったのでしょう。封建制が生み出した武士の代表の明智光秀が、日本を中央集権制に移行しようとした合理主義者の信長を討ち果たし王政復古は幻と消えたのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
もし、織田信長が存命で太政大臣に就任したら、明治維新よりも、300年程早く廃藩置県が起きて、日本全土から荘園が消え国家の土地になり、史上最も強力な中央集権制が敷かれ、各地に国司が派遣され事務官として納税の仕事だけをする。欧州のような絶対王政の時代が到来し国民軍が誕生したかも知れませんね。そうなると、明治維新の時に息せき切って西洋においつけ追い越せで無理をして近代化する苦労も少しは軽減したのでしょうか?
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