麒麟がくる第二話で、娘の帰蝶を嫁がせた婿である守護の土岐頼純を毒殺した美濃のマムシ斎藤利政(道三)守護を失った利政は、国人衆を抑える権威として一度は隠居した土岐頼芸に再び守護に就くように強制します。精一杯の皮肉を言う頼芸ですが、明らかに利政にビビっている様子。でも、どうして守護の土岐氏は部下である守護代の斎藤氏に怯えているのでしょうか?
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この記事の目次
守護代斎藤氏が恐いのは昔から?下克上だった美濃
斎藤利政の権勢に怯える守護の土岐氏、守護代は守護が任命する代官なのにみっともないですね?でも、実は守護代の斎藤氏の権勢に怯えるのは何も、頼芸一人ではありません。というより、守護の土岐氏は室町後期から、代々守護代の斎藤氏のお陰で国主になったようなものでした。
時代は麒麟がくるの舞台である戦国後期から90年ほど遡ります。当時の美濃守護は土岐持益と言いましたが、後継ぎの嫡男の持兼が早死にした為に持益は孫の亀寿丸を後継ぎにしようとします。しかし、これに守護代の斎藤利永が反対し、名門一色義遠の子の一色成頼を擁立して戦い、康正二年(1456年)敗れた持益は隠居させられました。
そうです!応仁の乱以前から、美濃では守護代が守護を破るという下克上が頻発している土地だったのです。かくして斎藤利永が擁立した一色成頼が守護となり、11代守護土岐成頼と名乗ります。とはいえ、成頼は斎藤利永に擁立されたようなものであり、実権はほとんどありませんでした。
応仁の乱守護斎藤氏の独壇場
応仁元年(1467年)応仁の乱が勃発します。土岐成頼は西軍の山名氏に与し、8000騎を率いて京都に帯陣して戦います。一方で本国の美濃は、実質的な守護代の斎藤妙椿が守備、美濃国内で東軍の細川勝元に属した富島氏や長江氏が斎藤氏に襲い掛かり内乱状態になります。
しかし、越前の朝倉孝景に匹敵する戦上手で知られた斎藤妙椿は、富島氏と長江氏を打ち破った上に、どさくさに紛れて東軍に味方している幕府奉公衆、公家、寺社の荘園や国衙領を奪い取り、勢力は尾張、伊勢、近江、飛騨まで拡大します。これでは、国内にいない成頼の威信は低下する一方で、全くの妙椿の言いなりであり妙椿は西軍のキーマンとして振る舞いました。
なーんだ、、頼芸とさして変わらないじゃないかと思った方、まさしくその通りで土岐氏は守護代の斎藤氏に頭が上らないのです。応仁の乱が終ると、実に11年ぶりに、成頼は西軍の名目上の総大将だった足利義視と息子の義材の二人を庇護しつつ革手城に帰国します。
守護代斎藤氏同士の争いでも成頼動けず・・
文明十二年(1480年)絶大な権勢を振るった斎藤妙椿が死去します。すると、妙椿の兄であった守護代斎藤利藤と、異母弟で妙椿の養子に入った斎藤妙純が後継者の地位を巡って美濃文明の乱を争います。戦いは、斎藤妙純が勝利し、斎藤利藤は近江に逃げていき幕府の保護下に入りました。ところが、この間、土岐成頼は特になにもする事がなく傍観していたので、守護代斎藤氏の力を削ぐ事は出来ませんでした。ばかりか、成頼は、自ら土岐氏の権勢を下げるような行動に出ます。
明応三年(1494年)四男の元頼を溺愛した成頼は、後継者と定めていた正房を廃嫡して元頼を守護にしようとしたのです。成頼は、小守護代の石丸利光に元頼を擁立させ、政房を擁立する守護代斎藤妙純と対立します。当初は成頼が妙純と戦うものの説き伏せて和解が成立しますが、翌明応四年再び戦争となり、成頼は妙純に敗北。成頼は敗走して家督を政房に譲り、隠居、元頼は石丸利光と抗戦を続けるも明応五年に敗れて自害しました。
なにやってんだよ、成頼、、kawausoも思わず舌打ちです。
斎藤妙純戦死・・でも、政房は?
斎藤妙純の擁立で、美濃守護の地位についた12代土岐政房ですが、思わぬチャンスがやってきます。明応五年(1497年1月)斎藤妙純が近江出兵中に、土一揆の軍勢に襲われて長男もろとも戦死したのです。嫡男が死んだ斎藤氏では、幼少の孫、斎藤利良に家督を継がせ、次男三男に後見させます。さあ、美濃の実権を取り戻すチャンスと思いきや、政房は父に自分がやられた愚行を、性懲りもなく繰り返しました。嫡男の頼武を差し置いて次男の頼芸を後継ぎにしてしまったのです。怒った頼武は、またしても守護代、斎藤利良の支援を受けて逆襲し、永正十六年(1519年)に頼芸を追い払い守護に就任します。
しかし、翌年には頼芸が盛り返し、頼武は窮地に陥りますが、その頃に守護の政房が死去しました。これを契機に頼武は、越前朝倉氏の支援を受けて、再び頼芸を追い出して実力で美濃守護になります。勝つ事は勝ちましたが、守護代斎藤氏の力を借りたのには違いなく、結局頼武も守護代斎藤氏の傀儡でした。本当に何代も進歩がないと言うか、、仲が悪いだけというか・・
守護斎藤氏は没落しマムシ二代が台頭
しかし、守護になった頼武の天下も長くは続きませんでした。斎藤氏の庶流の長井長弘と、その家臣である初代道三、松波庄五郎が頭角を現し、享禄三年(1530年)には頼武を越前に追放し、頼芸を守護に据えたのです。これにより、守護代斎藤氏の権勢は決定的に没落し庶流の長井氏が台頭してきますが、その配下の松波庄五郎が守護の頼芸に近づいていき、長井氏を讒言し一族を皆殺しにして、息子に長井氏の家督を継がせます。これが「麒麟がくる」に登場する二代目の道三である長井規秀です。
やがて、長井規秀は没落した守護斎藤氏の家督を継いで、斎藤利政になったのです。頼武は、その後も朝倉氏の支援を受けながら、美濃守護の地位奪還を図りますが、果たせずに死去。その遺志は、息子の頼純に引き継がれ、朝倉氏、織田氏の援助を受けつつ、頼芸、斎藤利政との間で戦争が繰り返されます。
そこで斎藤利政は頼純と和睦し頼芸を一度隠居させ、頼純を守護に据えて娘の帰蝶を輿入れさせました。ところが、頼純は守護になって、一年足らずで急死します。死因は不明ですが、斎藤利政による毒殺説も有力です。そんなこんなで頼純がいなくなり、美濃守護の地位が不安定になったので、斎藤利政は、一度、隠居させた土岐頼芸に守護職に就いてくれと命令しているのです。
麒麟がくるライターkawausoの独り言
土岐頼芸は、祖父である成頼を尊敬し、代々の守護が描いてきた鷹の絵を描いているのですが、ぶっちゃけ偉大な祖父の時代から土岐氏は守護斎藤氏に頼り擁立され、一族で喧嘩ばかりで、少しも権力が取り戻せないトホホな一族なのです。
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