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この記事の目次
東大寺大仏殿焼失は不可抗力
永禄十年(1567年)の十月十日に起きた、東大寺大仏殿の焼失については、松永久秀が三好三人衆との戦いの最中に起きた事であり戦場になった東大寺では、大仏殿以外にも敵の陣地を置かせない為に両陣営で、積極的に建物を焼いています。大仏殿についても久秀ではなく、三好三人衆が撤退に際して火を掛けたのが燃え広がり、結果的に大仏殿に引火して炎上したという史料も多くあります。
つまり松永は、仏教を否定するために大仏殿を焼いたのではなく、東大寺周辺が三好三人衆との交戦に使われたのでやむを得ない事だったのです。その証拠に、松永は大仏殿再建の資金集めである勧進の旅に出た京都阿弥陀寺の清玉上人に対し、後世に残る名誉と称え寄付を惜しまず、敵方の三好長逸も資金を寄付しています。
このように、史上有名な松永久秀の三悪とは、確たる証拠がないのです。
松永久秀の悪行が捏造された理由
では、どうして、松永久秀の三悪は、殊更強調されて後世に伝わったのでしょうか?
それはズバリ言えば、松永久秀の悪行を書いた太田牛一と湯浅常山の都合でした。例えば、太田牛一の「太かうさまくんきのうち」は、慶長年間、豊臣秀吉が死去して、徳川家康が権力を強めている頃に書かれました。
太田牛一は、豊臣秀吉を全面肯定する立場なので、徳川家康が豊臣家を上回ろうとする姿勢に警鐘を鳴らす為に、主君を裏切り続け天道による報いを受けた人物として、極悪人松永久秀を描き、家康に反省を促したかったのです。一方、湯浅常山が生きていた時代は、柳沢吉保が徳川綱吉に、間部詮房が徳川家宣に重用されて、低い身分から出世して老中格に昇進している時代でした。それに対し、家康時代から仕えている譜代大名達は反発していました。
儒学者の湯浅常山は、この風潮に警鐘を鳴らすべく、下克上の代表である松永久秀に目をつけ、太田牛一の記述を整理して、常山紀談で一頂を割いて紹介したのです。どちらも面と向かい権力者を諫言するのではなく、松永久秀を槍玉にして婉曲的に時代の風潮を批判する目的がありました。
戦国時代ライターkawausoの独り言
このように、松永久秀の三悪は根拠に乏しいものでしたが、その悪役ぶりは時の政治を批判する際のスケープゴートとしては適したものであったので、真偽を確認される事はないままに、アンモラルな人物として何度も拡大再生産され、とうとう戦国の梟雄にまで成りおおせてしまったのです。逆に戦後は、その既成の概念を己の才覚で突破するダークヒーローの側面が受けてしまい、三悪が似つかわしいという事にされてしまったわけですから、皮肉な話ですね。
参考文献:松永久秀と下克上 室町の身分秩序を覆す
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