【麒麟がくる】松永久秀はホントに戦国の極悪人なの?

2020年2月6日


 

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松永久秀

 

戦国のボンバーマンこと松永久秀(まつながひさひで)。麒麟(きりん)がくるでは、光秀(みつひで)に対しては頼れる兄貴の面を見せ、自分の敵を接待した鉄砲鍛冶(てっぽうかじ)の宗次郎に対しては、殺すぞこの野郎と冷酷(れいこく)な面をのぞかせるなど多面性を持つ人物として描かれました。

 

足利義輝

 

そんな松永久秀は主君の三好義興(みよしよしおき)を殺し、将軍足利義輝(あしかがよしてる)を殺し、東大寺大仏殿を焼き払うという三悪を為したとして、斎藤道三(さいとうどうさん)と並ぶ、戦国の梟雄(きょうゆう)とされています。しかし、最近の研究により、どうも松永の三悪は事実ではない事が分かってきました。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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松永久秀の悪評を形成した太田牛一

幕末 魏呉蜀 書物

 

松永久秀の悪評が形成されたのは、江戸時代の初期に遡ります。それは、信長公記(しんちょうこうき)の著者でもある太田牛一(おおたぎゅういち)が書いた「※太かうさまくんきのうち」に最初に出現し、そこで松永は将軍義輝を討ち、主君の三好長慶に讒訴(ざんそ)して、長慶の弟の安宅冬康(あたぎふゆやす)誅殺(ちゅうさつ)し、長慶の息子の三好義興を毒殺し、その後信長に降るも、やがては(そむ)き、永禄十年10月10日に東大寺大仏殿を焼いた罪により、十年後の天正五年の同月、同日、同時刻に信貴山城(しぎさんじょう)で名物、平蜘蛛(ひらぐも)(かま)を叩き割り焼死したとされます。そして、太田牛一は、この松永の最期を天道の報い、つまり悪行の因果応報(いんがおうほう)としたのです。

 

※たいかうさまくんきのうち:太閤様軍記の内と読み、豊臣秀吉の事績を賞賛した書物。

 

日本外史に記載され、世間に広まる

経済政策が得意な織田信長

 

こちらの太かうさまくんきのうちは、江戸時代の中期に、岡山藩の儒学者湯浅常山(ゆあさじょうざん)が記した戦国武将の逸話集である常山紀談(じょうざんきだん)に、「信長公松永弾正(だんじょう)(はずか)しめ(たま)ひし事」という項目をつけ、よりドラマ仕立てで具体的になります。

 

東照大権現(とうしょうだいごんげん)(徳川家康)が織田信長と対面した際、信長は(かたわ)らにいた久秀について、常人では出来ない事を3つもした。将軍の足利義輝を殺し、主君の三好長慶の息子義興を殺し、奈良の東大寺大仏殿を焼いた男だと紹介した、松永久秀は脂汗を流しながら赤面した。 常山紀談

西遊記巻物 書物

 

常山紀談では、家康の面前で信長に平然と恥をかかされる松永が強調された上に、松永当人も、それがどうしたという顔ではなく、脂汗をかき赤面するという描写になりました。さらに常山紀談の松永観は、文政十二年(1829年)に頼山陽(らいさんよう)が書いた日本外史で強化され、松永久秀が主君殺し、将軍殺し、大仏殿を焼き討ちと三悪を重ね、最後には平蜘蛛を叩き割り、城と共に焼け死んだ事がセットで描かれました。

 

大村益次郎 幕末

 

日本外史は、幕末から明治にかけて、広く日本人に読まれるベストセラーになり、ここで、松永久秀は、有能だが悪逆非道な人物、言い換えると世間の常識に囚われず、己の野心を最優先に乱世を生き抜いた爽快な悪党のイメージとして固定化したのです。

 

麒麟がくる

 

三好義興殺害は冤罪

日本戦国時代の鎧(武士)

 

ところが、このもっともらしい、三悪に松永久秀が関与したという具体的な証拠はありません。例えば、永禄六年(1563年)主君の三好義興を殺害した嫌疑(けんぎ)については、元亀四年(1573年)以降に書かれた足利季世記(あしかがきせいき)には、松永が毒殺したと書かれています。ところが、それ以前に出された柳生文書には、義興の病が重い事に、とても不憫(ふびん)で心も消え入りそうだと激しく落胆している松永の様子が書かれています。義興と松永は、永禄初年から共に京都で活動していた戦友であり、畠山氏や六角氏とも戦った間柄でした。柳生文書は、松永の部下であった柳生宗厳(やぎゅうむねよし)に対して松永が出した文書であり、嘘を書く必要がない文書なので、こちらが本当の松永久秀の本心でしょう。

 

足利義輝殺しには参加せず

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

次に永禄八年(1565年)に起きた将軍足利義輝殺しについては、松永久秀はすでに隠居して関与しておらず、実際に御所を包囲したのは、三好義継、三好長逸(みよしながやす)、そして、久秀の息子の松永久通(まつながひさみち)でした。最近の説では、本当は三人は義輝を殺すつもりはなかったものの、義輝が武力で激しく抵抗したので、不可抗力で殺害したとも言われています。

 

一方、将軍殺しには参加しなかった久秀は、義輝の弟で仏門に入っていた弟の覚慶(かくけい)(後の義昭(よしあき))の身柄の安全を保障しています。息子の松永久通は、義輝の弟の鹿苑寺周暠(ろくおんじしゅうこう)を討っており、義昭を殺す可能性も十分にありました。それに対し松永は義昭の身の安全を保障する事で、久通の行動を制止したとも考えられます。ここから考えると、松永久秀が将軍殺しに消極的ないし、反対であり万が一の切り札として、義昭を確保する事で、反三好の勢力が勢いづくのを阻止しようとしたと考えるのが自然です。

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