麒麟がくる第四話「尾張潜入司令」では、織田信秀と織田家の人々が、アリ、ヤウ、オウと言いながら蹴鞠に興じるシーンが登場しました。
蹴鞠と言うと京都の公家が嗜んでいるイメージがありますが、厳めしい戦国武将が本当に蹴鞠をやったのでしょうか?
また、ただ鞠を蹴っているだけに見える蹴鞠にはルールがあるのでしょうか。
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【麒麟がくる】結構単純な蹴鞠のルール
蹴鞠とは1チーム4人から6、8人で構成され、21センチから24センチの二枚の鹿皮を縫って空気を入れた鞠を蹴り合うスポーツです。蹴鞠をプレイする時は以下のルールに従います。
①下﨟と呼ばれる8位のプレイヤーがフィールドの中央に鞠を置いて下がる。
②8人のプレイヤーが身分順に進み出て中央においた鞠を中心に円陣を造る。
③下﨟が進み出て、中央に置かれた鞠から3歩ほど手前でしゃがみ、そのまま進んで右手の親指と人差し指で鞠の皮をつまみ、
鞠を右に向けて左手を添え、腰皮を横にふくろを上下にしてしゃがんだまま3歩引いて立つ。
④七位のプレイヤーが中央まで3歩の距離まで進み下﨟に体を向け、下﨟が七位のプレイヤーに鞠を蹴り渡す。
⑤七位プレイヤーから、第一、第二、第三、第四、第五、第六、第七、第八と鞠を蹴渡し最後に第八位のプレイヤーから、
軒と呼ばれる第一位プレイヤーに鞠を蹴り渡して一巡させる。
⑥鞠を受け取った軒が鞠をひときわ高く蹴り上げキックオフ。
ここからは、順番に関係なく随意に蹴りますが、基本は一人3足で、まず相手から鞠を受けるのが一足。次に自分の前で蹴り上げるのが二足。最後に他のプレイヤーに蹴り渡すのが三足となります。少し儀式が多いですが、順番に分けると、そこまで複雑なルールではないですね。蹴鞠には、鞠を地面に落とした人間が負けになる個人戦と、いつまで鞠を蹴り続けられるかのタイムを競う団体戦があったようです。
【麒麟がくる】織田信秀に蹴鞠を教えたのは誰?
では、麒麟がくるで織田信秀やその家臣に蹴鞠を教えた公家は何者なのでしょうか?
実は、その公家の名前は文献に残っており、飛鳥井雅綱と言います。天文二年(1533年)織田信秀に請われて尾張まで下向し、勝幡城、清州城で蹴鞠会を開催し、多くの織田家の家臣を門弟にした事が言継卿記の記録から見受けられます。
飛鳥井家は歴代の蹴鞠と和歌に秀でた公家でしたが、戦国時代には京都が戦乱で荒れ果てて、公家が地方に所有していた荘園からの収入も途中で断絶してほとんど入ってきませんでした。そこで食うに困った公家は背に腹は代えられないとして田舎者だけどお金と権力はあり、京都の文化にコンプレックスがある地方の大名を回り、蹴鞠や和歌を教えたり添削したりしつつ、入門料を取るなどして収入を得ていたのです。
生活に追われてやった事とはいえ、日本各地に公家が自らのお家芸を伝授していった結果として、日本各地の文化レベルがあがったのも事実でした。もっとも地方の武士も内心では、「こんなものの何が面白い?」と思っていたのかも知れませんけどね。
【麒麟がくる】どうして蹴鞠の掛け声はアリ、ヤウ、オウなのか?
麒麟がくるでは、蹴鞠に興じている織田家の武士たちが、アリ、ヤウ、オウと掛け声を掛けつつ鞠を蹴っていましたが、この掛け声は何なのでしょうか?
これは、平安後期に出現した藤原成通という蹴鞠の天才が、蹴鞠の腕をさらに上達させる為に千日間毎日蹴鞠の練習を行う誓いを立て、誓いを成就したちょうど千日目に夢枕に、3匹の猿の姿をした精霊が出現し、その三猿の名前がアリ、ヤウ、オウだったからと言われています。以来、この精霊の名前を唱えると蹴鞠が上達すると考えられたようです。
この藤原成通は、蹴聖と呼ばれる程のファンタジスタであり、皿が並べられたテーブルの上に乗って鞠を蹴っても物音1つもしなかった。サムライの肩の上に乗って鞠を蹴ってもサムライは気が付かなかったという体重ゼロらしき逸話や、清水の舞台の欄干を蹴鞠をしながら一往復したというアクロバットな伝説が残されています。しかし、この平安のファンタジスタは、非常に失言の多い人物であり、白河法皇のお気に入りでありながら、その失言の為に公卿になれず、大納言どまりだったので出世を諦めて出家したと言われています。天は二物を与えずと言うべきか、蹴鞠が凄すぎてそれ以外の部分では割を食ったのかも知れません。
戦国時代ライターkawausoの独り言
蹴鞠は足利義満や義政が愛好した事もあり、武家の教養として日本中に普及し、戦国時代には、九州の大友氏や島津氏、北陸では伊達氏で蹴鞠が盛んで、四国でも長曾我部氏が愛好していました。ところが、織田信秀の息子の織田信長は蹴鞠よりも、相撲を愛好。
「みんな、相撲しようぜ」と相撲を奨励したので、次第に武士の教養としての地位を相撲に奪われて、安土桃山時代にはすっかり下火になりました。
ところが、蹴鞠は今度は上方の庶民に愛好されるようになり、曲芸蹴鞠のような大道芸などもあり江戸時代も命脈を保ち、明治以後は蹴鞠をよくした明治天皇の声掛かりで、保存会が整備され、現在に至っています。
参考文献:真実の戦国時代 渡邊大門
参考文献:テレビガイド NHK麒麟がくる公式ガイドブック
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