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戦国時代の外科手術はどんなモノだった?

2020年2月8日


 

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望月東庵(麒麟がくる)

 

麒麟(きりん)がくる第四話「尾張潜入指令(おわりせんにゅうしれい)」では、望月東庵(もちづきとうあん)と双六をやっていた織田信秀(おだのぶひで)小豆坂(あずきざか)で負傷して()んでいる肩を見せていましたね。

 

三国志のモブ 反乱

 

戦国時代は合戦が頻繁におきて、刺し傷、切り傷、鉄砲傷などで負傷する兵士が続出し、同時に外科手術も発展した時代でした。では、戦国時代の外科手術とはどんなものだったのでしょうか?

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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戦国の従軍僧兼医師時衆

 

戦国時代の外科手術を担ったのは、金創医(きんそうい)と呼ばれていました。しかし、戦国時代の知識人階級である医師が危険な戦場に早々出向くハズもなく、多くその仕事に当たったのは一遍上人(いっぺんしょうにん)が開祖である浄土教の一派時衆(じしゅう)の僧侶達でした。時衆は、決まった道場を持たず日本全国を踊り念仏をしながら移動する遊行を繰り返し喜捨を受けながら修行していました。その性質から時衆は、同じく移動する存在である軍隊と相性が良く、元々は死にゆく兵に南無阿弥陀仏を唱え、極楽浄土に導く従軍僧として活躍しましたが、やがて治療に従事するようになります。

 

正装した明智光秀

 

こうして、戦場で実際に負傷者を治療する過程で時衆は金創医としてのスキルを高めたのです。明智光秀(あけちみつひで)が越前に滞在していた頃に住んでいたのは、長崎称念寺という浄土教の門前町で、そこは時衆の僧侶も大勢出入りしていたそうです。光秀が医学に詳しいのは、この時に時衆の僧侶と交流していたせいかも知れません。

 

戦国時代の外科手術とは?

華佗(華陀)

 

戦国時代の外科手術は次のような種類でした。

 

①止血

②接骨

③傷口洗浄

(やじり)弾丸(たま)摘出

 

①の止血は外科手術でも最も優先される事です。大量の血が流れると人間は失血死するからです。そこで、切り傷の時には蒲黄(ほこう)(ガマの花粉)やヨモギ、ショウガの粉を使用して止血し、傷口を洗浄して血留め薬を塗りました。もし、刀などで傷口が深く開いた場合には縫うわけですが当時麻酔などというものはありません。負傷者には気付薬などを処方して我慢してもらい、その場で傷口を縫いました。

 

羽柴秀吉(足軽時代)

 

戦国時代の死因で最も多いのは、実は打撲で打ち殺される事でした。当時の足軽は長い槍を常備していて、これを振り下ろして敵をブッ叩いていたからです。そこで骨折も負傷では多く、金創医は、接骨薬を服用させつつ皮付きの柳の木を添え木にして折れた箇所を保護しました。

 

長篠の戦い(鉄砲一斉射撃)

 

戦国時代当時、もっとも困難で負傷者に激痛を強いたのは矢尻や鉄砲弾の摘出手術でしょう。よく、時代劇では豪傑が自分の体に刺さった矢を気合と共に引っこ抜いたりしますが、実際には、体に深くささった矢尻は腕の力程度では簡単には抜けないそうです。

 

忙しくて過労で倒れる明智光秀

 

また、無理に引き抜くと近くにあった太い血管を傷つけ大出血して命に関わる可能性もあります。そこで、矢尻の摘出には、まず引き抜くのに邪魔になる矢を折り切り、その後、釘抜きや鉄挟(てつばさみ)で矢尻部分を引き抜きます。もちろん、麻酔などありませんから、確実に暴れ回る負傷者を木に括りつけ大勢で押さえつけてやったのです。鉄砲の弾丸の場合も同じでしたが、こうまでして治療しても感染症で多くの兵士が亡くなりました。

 

麒麟がくる

 

【麒麟がくる】戦国時代には駆血はなかった?

 

現在では、血を止めるのに傷口よりも心臓に近い部分を布などで縛り血流を遅くする駆血(くけつ)は常識ですが、戦国時代には駆血という概念は確認できず、駆血は幕末頃まで年代が下るようです。だとすると当時は駆血をせずに、ひたすらショウガやヨモギの粉に頼り血が止まるのを待っていたのかも知れません。だとすると、負傷者が運び込まれた部屋はおびただしい出血で床が真っ赤になっていたかも知れませんね、いやー怖いです。

 

恐怖!足軽の治療法

明智光秀

 

しかし、いかに激痛とはいえ専門の金創医に治療されるのはまだ幸運でした。戦国時代も後期になると、合戦が大規模になり本業の武士だけでは合戦が出来ず、徴発された農民が借り物の具足を着て戦争に参戦していましたが、その数は圧倒的で、戦死者の9/10が足軽であったという統計もあります。

 

もちろん、圧倒的に多数の足軽にまで金創医の治療が間に合うとは限らず、足軽は逞しくも自らの経験から外科治療をしていました。ですが、まともな医学知識を持たない農民ですから治療しているのか酷くしているのか分からない恐るべき治療もあったのです。

 

例えば傷口の止血については、

 

「傷口に人糞(じんぷん)か塩を塗り込むべし、火傷を負ったら、そこを醤油であらうべし。醤油なくば、味噌を溶かして火傷を洗えば火傷の毒は体内に入らじ」

幕末 魏呉蜀 書物

 

傷口に塩を塗り込めという、この過激で間違った民間療法には続きがあり

 

「傷口に塩を塗ると、患者の多くは気絶するので、その時は気付け薬を与えて起こす」

 

とあり、おいおい!なんだよ、そのマッチポンプと突っ込みたくなります。

 

万能薬馬糞汁

武田騎馬軍団 馬場信春

 

そんなトンデモ民間療法に多く出てくるのが、馬糞を水に溶いたものを飲むと下血剤になるというものがあります。「名将言行録」の中の「甘利晴吉(あまりはるきち)馬糞(ばふん)を勧めるの事」という話によると、武田家が武州松山を攻めた時、米倉丹後守(よねくらたんごのかみ)の息子の彦次郎(ひこじろう)が敵弾に当たり陣中に運び込まれます。

真田丸 武田信玄

 

彦次郎の腹部には、被弾して血が溜まり膨れ上がっているので、悪血を抜く為に馬糞汁を飲むように周囲に勧められますが、彦次郎は

 

「汚らわしい馬糞汁など飲んで、未練がましく生きようとしたと仲間に嘲られては困るから、このまま死ぬ」と意地を張って、馬糞汁を飲もうとしません。(当たり前ですが)

 

そこに勇者として名高い、甘利晴吉が通りかかり、

「馬糞汁でも何でも飲んで、命ある限り主君に仕えるが武士たるものの道である。どれ、拙者が汁を味見してやろう」

 

と言うや否や、柄杓に馬糞汁をすくい一気に飲んで「まずいー、もう一杯!」「なかなかの風味である」と言い放ったのです。男気(あふ)れる甘利の態度に彦次郎は感動、馬糞汁ごときを小さなプライドで飲まなかった己を恥じて、その場で桶一杯の馬糞汁を一気飲み!そしてすぐに吐き気を催しリバース!この時に腹に溜まった悪血を桶一杯分も吐き戻し、その後、傷は快方に向かったというのです。ホントかな?

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

馬は日本神話上、食物の神であるウケモチノカミが死んだ時、その頭部から牛と一緒に出現したと言われ、霊力を持つ生き物として崇拝の対象でもありました。足軽たちの民間療法、馬糞汁飲んで傷ナオールというのも馬の神秘性がその根底にあるのかも知れません。

 

でも、馬糞汁は飲めないぜベイビー!!

 

参考文献:絵解き雑兵足軽たちの戦い

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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