劉備は本当に義理人情の人だったのか?

2020年3月19日


 

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麋竺と劉備

 

三国志演義』で劉備(りゅうび)は困った人は見捨てておけない義理人情の人とされています。もちろん、それは小説の中の話であり現実世界は義理人情だけで渡っていけるほど、甘くありません。しかし実際の劉備はどうだったのでしょうか?そこで今回は史実の劉備が義理人情の人だったのか考察します。

 

自称・皇帝
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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まさかの借金踏み倒し!?

太行山に入り山賊になる劉備三兄弟

中平元年(184年)に黄巾の乱が起きると劉備は挙兵します。この時に劉備は中山の張平世(ちょうへいせい)蘇双(そそう)という2人の商人からお金をもらって、それを元手に軍備を整えました。2人とも劉備がただ者ではないと思ったから資金を提供したようです。この話は横山光輝『三国志』でも採用されているので、記憶している読者の皆様もいるはずです。

土いじりをする劉備

 

だが、これはおかしな話。当時の劉備は24歳でしかも社会的な地位も実績も無し。そんな若僧にベテラン商人がお金なんて簡単に投資してくれると思うでしょうか?

 

呂不韋

 

キングダム』の呂不韋(りょふい)でしたら絶対にしてくれないでしょう。なんといっても商談では値切ったことがないほどですから・・・・・・残念なことに劉備が張平世・蘇双にお礼をした話はありません。1番考えられるのは借金踏み倒しですね(笑)

 

劉邦の息子を補佐する曹参(そうしん)

 

せめて前漢(前202年~後8年)初代皇帝の劉邦(りゅうほう)みたいに占い師のおじいさんにお礼をしようと捜索した話さえ残っていれば救いがあるのだが・・・・・・

 

義理人情の人は平原の相時代に作った偶像だった?

公孫瓚と劉備

 

初平3年(192年)に公孫瓚(こうそんさん)に従って袁紹(えんしょう)と戦った劉備は、その功績により平原の相(へいげんのしょう)に任命されました。ところが劉備のことを嫌がった郡民の劉平(りゅうへい)は劉備の暗殺を計画します。

魏志(魏書)_書類

 

劉平が劉備を暗殺しようとした詳細な理由については正史も裴松之(はいしょうし)が史料として採用した『魏書(ぎしょ
)
』にも記載がありません。

 

劉備の黒歴史

 

心当たりがある件と言えば、劉備が安喜県の警察署長時代に監察としてやって来た督郵をボコボコにした話です。劉備の督郵傷害事件が世間に広まっており、「劉備軍=暴力団」のイメージが民の間に根付いていたのかもれません。劉平や土地の人からすれば、そんな危ない連中は土地から消えてもらいたいと思ったので暗殺を企んだのでしょう。

劉備 黒歴史

 

しかし、この暗殺は失敗に終わります。なんと暗殺者が劉備に懐柔されるという結末に終わるのです。劉備はやって来た相手が暗殺者とは知らずに、おもてなしの心で出迎えます。心を打たれた暗殺者はその場でペラペラしゃべってしまい、劉平の計画は頓挫したのでした。

 

二刀流の劉備

 

もちろん劉備だって、いくつもの戦場を渡り歩いてきたプロフェッショナル。面会に来た相手が普通ではないことぐらい見れば分かるはずですし、事前に情報を仕入れていたことでしょう。劉備だってこんなことをされては腹が立ったでしょう。だが、安喜県時代と違い劉備も年齢を重ねています。同じ轍を踏むわけにはいきません。

宴会をして劉備をもてなす劉璋

 

そこで劉備が行ったのが自分を変えることでした。『魏書』によると当時、平原は盗賊の略奪と飢饉に苦しんでいました。劉備は盗賊を撃退、飢饉(ききん
)
に苦しむ人々を援助。さらに、身分の低い人々とも食事を一緒にしていました。

 

劉備を警戒する王粲

 

つまり、劉備は自分を義理人情の人物に見せる演出を行ったのです。この作戦が見事に的中したのか、人々はいつの間にか劉備のことを信頼するようになりました。『三国志演義』における劉備=義理人情の人というイメージは平原の相時代に作られた偶像だったのです。

 

三国志ライター 晃の独り言 ネタばれ言った私

三国志ライター 晃

 

私は毎日、『キングダム』を読んでいます。このマンガは面白くて・カッコよくて最高です!蒙恬(もうてん
)
が格好良すぎですね。そう言われてみれば、3年前に職場に『キングダム』が好きな同僚がいてよく話していたことを覚えています。

 

万里の長城

 

ちなみに、その同僚は歴史に詳しくない人であり蒙恬が万里の長城(ばんりのちょうじょう)の建設に関わっていたことも知らなかった。また蒙恬が趙高(ちょうこう
)
李斯(りし)に毒殺される結末を言ったら、かなりショック受けていた。

 

ネタバレ言ってしまい、スイマセン・・・・・・たぶん原先生は、そんなところまで描かないと思います。

 

※はじめての三国志では、コメント欄を解放しています。劉備のファンという人はコメントをください。

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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