明智光秀は早口で理路整然と話す人だった!口癖も紹介

2019年12月1日


 

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織田信長

 

戦国時代は、現代からみても四、五百年も前であり、当然、その時代の人々と直接に会話した現代人はいません。なので、彼らがどんな風に話をしたかは永遠の謎であり想像するしかないのです。2020年のNHK大河ドラマ麒麟(きりん)がくるの主人公、明智光秀(あけちみつひで)もそうなのですが、彼には、その特徴的な話し方を裏付ける史料が残されていました。

それによると、光秀は早口で理路整然(りろせいぜん)とした話し方をする人であり、またある口癖を持っていたようです。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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興福寺の裁判記録戒和上昔今禄

西遊記巻物 書物

 

光秀がどのような口調で話し、どんな口癖を持っていたかを当時の記録から知るのは困難です。というのも当時の文書は文語文(ぶんごぶん)であり、話し言葉とは違う書き方で記していたからでした。しかし、中には例外的に文語文を排して口語文で記されている文書があり、その一つに戒和上昔今禄(かいわじょうせきこんろく)という文書があります。

西遊記はどうやって出来たの?三蔵法師編

 

戒和上昔今禄とは、天正四年(1576年)から天正五年にかけて、一乗院門跡(いちじょういんもんぜき)となった尊勢(そんせい)近衛前久(このえさきひさ)の息子)に戒を授ける役目である戒和上職(かいわじょうしょく)を巡っての興福寺と東大寺が争った裁判記録です。執筆したのは、興福寺東金堂(こうふくじとうこんどう)空誓(くうせい)という人物ですが、裁判記録の性質上、誰が何と言ったという記述に間違いがあっては困るので当時としては珍しく口語文で書かれています。そして、この裁判を担当したのが明智光秀である為に、彼の肉声が口語文で残される事になったのです。

 

早口だった光秀

明智光秀 麒麟がくる

 

この戒和上昔今禄では、興福寺が史料などを集められずに非常に不利だったのですが、織田信長が、戒和上は従来通りにせよという基本方針を示した事により、光秀は最近の事例では興福寺が戒和上を出すのが通例として興福寺勝訴の判決を下しました。その最後の部分で、光秀は以下のような事を言ったようです。

お茶を楽しむ明智光秀

 

一書にて順慶(じゅんけい)申越(もうしこ)し分にても、興福寺の道理と思うに、また(うけたまわ)りうくれば、なおこれ是非(ぜひ)なく、()の方道理なり、無案内(ぶあんない)にて()くききたりとて ソハク(人名ナリ)に対して自慢せられてのち茶をたまいて帰りおわんぬ

 

文の最期にソハクという言葉が出て来ますが、ここには人名なりという()え書きがあります。この人物は正確には宗伯(そうはく)であり、ソウハクが正しいのですが、どういうわけか「ウ」が飛んでしまっています。元々ウの発音は、口を閉じて発音するので聞き取りずらいのですが、それ以前に光秀が早口であり、日頃から宗伯をソハク、ソハクと発音していた可能性もあるのです。文言から考えると、空誓は宗伯を知らなかったと見え、光秀の発音からソハクを人名と理解して、添え書きに人名と記したのでしょう。

kawauso

 

わざわざ人名なりと添え書きした点を考えると、空誓はソハクを奇妙な名前だなと考え、忘れないように添え書きしたのだとkawausoは推測します。ところがソウハクも光秀も、ソハクで耳慣れているので、空誓がそんな事を感じているとは思いもしなかったのでしょう。

 

kawauso

 

kawausoも早口なのですが、早口の人の発音に慣れると、そうではない人の耳も早口に慣れてしまい、その人が早口だと感じなくなるものです。宗伯と光秀もそんな関係だったのではないかと思います。

 

麒麟がくる

 

理路整然とした光秀の口癖 是一

明智光秀は鉄砲の名人 麒麟がくる

 

もう一つ、戒和上昔今禄には、明智光秀の口癖らしき文言が残っています。こちらは、長いので現代文に直して紹介します。

 

一、興福寺が証拠として提出した文書には年号も判もない文字の欠落などあれば信用できないだろう。是一

二、興福寺と東大寺の堂衆の間で、長老が必ず戒師となる事はない。是一

三、最近では文安三年に寿宣(じゅせん)が戒師を勤めた。是一

四、興福寺と東大寺の間で代々続けて戒師を勤めてきた例は建久年間に東大寺が十代続いた例があり、

一方興福寺にも十代以上続いた例がある。是一

五、文安三年以降は、現在まで興福寺が戒師を務めている是一

 

箇条(かじょう)書きの一番最後に是一(これいち)という文字が入っていますが、これは、空誓が裁判記録としての価値を戒和上昔今禄に求めている以上、光秀の文言と考える事が出来ます。是一はコレヒトツと読むようですが、光秀は早口で、一つ、一つの論点をコレヒトーツ!と整理しながら話す人物であったと考えられるのです。

 

もう一つ登場するコレヒトーツ!

嫉妬している明智光秀

 

明智光秀の口癖(くちぐせ)の是一は、もう一カ所出て来ます。それは、戒和上昔今禄の最期の最期、光秀が出した判決について東大寺が不服を言うだろう事を予測し、俺も理不尽な目にあってるよというプライベートなケースを披露した部分でした。

 

(みつひで)、先祖忠節を致すゆえ、過分に所知下(しょちくだ)されし尊氏御判御直書等所持(たかうじごはんごじきしょなどしょじ)すれども当知行(とうちぎょう)なきゆえ、中々右府様(うふさま)へ御訴訟も、え申せず、今以て不知行(ふちぎょう)つかまつる間、久しく証跡(しょうせき)は持ても、やくにたたす、是一

足利義政

 

やはり一番最後に是一という文言が出てきています。文言の最後にコレヒトツと付け加えるのは、光秀の口癖のようです。

 

文書の内容は、光秀の先祖が太平記の時代に足利尊氏(あしかがたかうじ)に仕えて参戦して手柄があったので、所領を与えるとされた尊氏直筆の印判付きの書状を持っているが、古い物なので右府様、(信長)へも中々申し出る事が出来ないので所領を得ていない。だから、古証文を持っていても役に立たないと断じています。

武田騎馬軍団 馬場信春

 

東大寺は、戒和上の正統性について、数百年分の史料を揃えて提出したのですが、光秀は信長の現状追認の意向を忖度し、それらの緻密な史料を古証文として不採用にし、近年は興福寺が戒和上を勤めているという事に重点をおいて興福寺勝訴としました。

 

水月観音像(仏像)

 

もちろん、東大寺はそんなバカなと怒ったでしょうが、それに対して光秀は俺だって太平記の時代に先祖が手柄を立てて、所領を足利尊氏からもらったけれど、実際にはもらえないままだった、その時の証文は保持しているが、今となっては古証文だからどうしようもないんだよと言い訳をしようとしたようです。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

 

戒和上昔今禄から推測すると、光秀は早口で、そして物事を理路整然と話し言葉の最期にコレヒトーツと加える口癖を持つ人であり、理不尽な出来事について人に文句を言われそうな時には、そうは言うけれども、私は私で昔はこういう事があってなという人だったようですね。kawausoも早口なので、なんだか親近感が持てました。

 

参考文献:明智光秀 牢人医師はなぜ謀反人になったか NHK新書出版

 

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