三国志演義では黄忠と共に老将コンビとして大活躍する厳顔。大体は黄忠が金で厳顔が銀というパーソナルカラーになりがちですが、そもそも正史三国志には、厳顔が老人であるという描写はありません。では、どうして厳顔は老人になってしまったのか?
今回はその仮説を立ててみます。
厳顔の描写は張飛伝にある
厳顔は劉璋が統治していた頃の蜀の武将です。その履歴の大半は、正史三国志張飛伝にあり、以下のような内容です。
張飛は諸葛亮らと流れを遡上して分かれて郡県を平定した。江州に至って巴郡太守厳顔を破って生け捕りにした。張飛が「大軍が至ったのに、どうして降りもせずに敢えて抗戦したのか?」と叱責すると厳顔は「卿らは不法にも我が州を侵略したからよ。我が国には野蛮人に対しては首を斬られる将軍がいるだけで降る将軍はおらぬわ」と返答した。
張飛は怒り、左右の者に引き立てて首を斬るよう命じたが厳顔は顔色を変えず、「断頭するならさっさとここで斬れ。どうして怒るのか!」 張飛は壮士であるとしてこれを赦し引き入れて賓客とした。
張飛伝全925文字のうち、厳顔の件は127文字と1/10以上を占め、かなり印象深い話になっています。厳顔にはもうひとつ裴松之が補った華陽国志に劉備が入蜀し巴郡に到着した当初、厳顔は胸を叩いてため息をつき「これぞいわゆる独り山に住んで坐し、虎を放って自分を守るというようなものだと言ったと記述があります。しかし、御覧のように厳顔を老将とする描写はありません。
張任の最期が厳顔と混同した
蜀の武将は大抵、降伏して劉備に仕えるのですが節をつらぬいて処刑された人物もいます。それが張任で三国志演義では張任の配下が落鳳坡で龐統を射殺した事になっています。この張任、正史三国志先主伝では、僅かな記述しかないものの、それを補う益部耆旧雑記には、まとまった記述があります。それは以下の通りです。
①張任は蜀郡の人で家は代々貧家だった。若くして胆力があり志を立てて州に仕えて従事となった。
②劉璋は張任・劉璝を派遣し、精兵で先主を涪で防がせ、劉備に破られると退却し劉璋の子の劉循と雒城を守らせた。張任は兵を率いて雁橋に出撃し戦って敗れ捕らえられた。
劉備は張任の忠勇を聞いており、軍には殺さず捕らえるよう命じていた。張任は声を励まし 「老臣は二君には仕えないものだ」 先主は嘆じて惜しみつつ処刑した。
三国志演義に厳顔と張任の混乱が見られる
三国志演義の張任は、正史以上に活躍し、龐統の命令で剣舞にかこつけて劉璋を斬ろうとした魏延を阻止すべく剣舞を舞い、劉備を射殺しようとして、間違って龐統を殺す金星を挙げるなど活躍しています。しかし、三国志演義の張任は老将ではありません。益部耆旧雑記には、はっきりと老将と描かれているにも関わらずです。何故か、正史をベースとした三国志演義で張任は老人ではないのです。
そこでkawausoは考察してみました。厳顔と張任はいずれも同時期、蜀将として捕らえられます。かたや劉備にかたや張飛にですが、張任は降伏を拒否して処刑され厳顔は降伏を受け入れて蜀に降ります。そして二人とも志が固く頑固と共通のパーソナルがあります。
それが、正史が三国志演義に変化する途中、誰かが張任と厳顔の履歴を混同し、厳顔を老将と誤記したのではないでしょうか?
おあつらえ向きに蜀攻めには黄忠も参加しています。張任が老将では殺されてしまうのでコンビは組ませられないですが、厳顔が老将なら生きて投降したので組ませられます。こうして、誰かの張任と厳顔の履歴の混同は放置されて規定になり、老将張任は消え、老将厳顔が誕生したのです。
三国志演義のあべこべ部分
また三国志演義では、劉備の入蜀を警戒し、「劉備は内心で何を考えているか分らん」と劉璋に進言しているのは張任ですが、正史の張任にその記述はありません。逆に正史の厳顔は、劉備が入蜀し巴郡に到着した当初、「これぞいわゆる独り山に住んで坐し、虎を放って自分を守るというようなものだ。と言い大いに嘆いてますが、三国志演義の厳顔にはそんな描写はありません。このように本来厳顔にあった描写が張任に移動したり、張任の描写が厳顔に移動したのは、よく似ている両者の履歴がある時期に混同されたせいではないかと推測します。
三国志ライターkawausoの独り言
kawausoは厳顔が老将になったのは、創作ではなく張任と厳顔の履歴が事故で混同され、混じってしまった結果だと推測します。人為的なミスが老将厳顔を産み、黄忠・厳顔の老人コンビを成立させる原因になったとしたら、なんとも愉快ですよね?
参考文献:正史三国志
関連記事:厳顔の最後はとっても○○だった!!