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この記事の目次
浦上宗景が破局の切っ掛け
但馬攻めの不履行と尼子・山中を匿った事でギクシャクしだした織田と毛利の関係は、山陽地方の備前・美作の境界に置いて決定的な破局に至ります。ここでの対立軸は備前天神山城の城主、浦上宗景とその支配下にあった岡山城主、宇喜多直家です。
元々、浦上宗景は、毛利氏と結び尼子氏と対立していましたが、毛利氏が中国地方に勢力を拡大する段階で離反、大友氏や美作の三浦氏と「毛利氏包囲網」に加わります。
その後、義昭の和睦斡旋で元亀3年に毛利氏と浦上氏の和睦が実現しますが、ここで、尼子勝久や山中鹿之助が浦上氏に加担し、再び浦上氏は毛利と敵対。それに対し、宇喜多直家は浦上氏と決別し、毛利氏に協力しました。
浦上氏は、その後、信長に接近し備前、播磨、美作、三カ国の所領を安堵するとした朱印状を発給します。これには毛利氏は驚きます。毛利氏の敵である浦上氏を信長は受け入れ、その支配下には、尼子・山中の両名もいたからです。
やがて宇喜多直家は毛利氏の援軍を受けて、備前天神山城を攻撃、これに対し信長は天正3年4月頃、宗景と直家の和睦を画策し、協力を吉川元春に要請しています。ところが和睦仲介の手紙が届くや、毛利と直家は全力で天神山城を攻撃し陥落させました。浦上宗景は逃亡し隣国の播磨へと落ち延びます。
さて、浦上宗景が播磨に逃げると信長はどうしたのかと言うと、越前攻めに参加していた荒木村重を引き抜き播磨に急行させ、宗景が入るための城を宇喜多氏の端城を攻略させて、その城を修理して増築し宗景に与え兵糧を運び込み、村重には、浦上氏の後方支援を命じたのです。
唖然呆然、、信長は表面上、毛利氏と断交しないまま、反毛利の浦上氏を一貫して支援し、わざわざ親毛利の宇喜多氏の城を奪ってまで城主に据えたのです。これでは、いくら毛利氏と表面上仲良くしても無意味でしょう。
毛利氏と敵対していると思わない鈍感信長
ここまでの信長の対応を見て、読者の皆さんはどう思いますか?
善悪は別として、もう信長は毛利と敵対するつもりなんだと思わない人はいないでしょう。事実、毛利氏は表面上は友好関係を維持しつつ、信長の権大納言右大将就任を祝いながら、天正3年の9月には対織田開戦を真剣に協議しはじめました。
宇喜多直家に関しても信用ならない男ではあるが、いざとなれば織田家を防ぐ盾くらいにはなるだろうと評価しつつ、織田家と開戦になった時のシミュレーションとして、①合戦寺の毛利家中の統制、②出雲、伯耆、因幡の維持、宇喜多直家の繋ぎ止め等を想定し、さらには、それまで受け入れていなかった足利義昭も擁立しました。
このように毛利家は、総力を挙げ東西弓箭儀(合戦)に備え始めます。
ところが、毛利氏を散々に疑心暗鬼させた信長は、この時点でも毛利氏が裏切るとは思いもしなかったようです。毛利氏が吉田郡山城で「東西弓箭の儀」を談合していた、まさにその頃、信長はそれまで没交渉だった関東・陸奥の大名に書状を出しているのですが、その中で毛利氏との関係に触れ、中国地方は俺の庭で、毛利と小早川は子分みたいなものと自慢しているのです。
関係が遠い東北と陸奥の大名に対し、若干のハッタリや吹かしはあるでしょうが、もし、毛利氏が敵対すると思えば、こんな後で大恥をかく文面を残さないでしょう。
天正4年(1576年)5月23日、信長は毛利氏が海路から本願寺に兵糧を支援しているという報告を受け、もし、それが本当ならば、当方の船を出して撃退するようにと発令しました。
この期に及んで、もし、という言葉を使う所に、信長の警戒心の無さが出ています。やはり、信長は自分が散々に毛利氏を裏切るような事をしながら、それに気づかない超鈍感ぶりを示していたのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
織田信長は、国人領主の心の動きに鈍感でした。
小さな領地を必死で守る国人領主がちょっとした国境いの変化にも過敏に応じる事を理解できず、同盟相手さえ攻めないならセーフだろと思っている節があります。だから悪びれず、浦上宗景に居城を与える名目で宇喜多直家の端城を落としたり、匿わないと約束しながら尼子勝久と山中鹿之助を堂々と匿い、浦上氏の部下として配置したり出来るのでしょう。
「あれは小者同士の喧嘩であって、ウチとあんたは友好関係」信長は勝手にそう思いこみ、毛利氏もそうだと思い込んでいたんですね。
参考文献:織田信長不器用すぎた天下人 河出書房新社
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