世界の歴史でもあまりない禅譲をわかりやすく紹介

2020年4月7日


 

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簒奪する王莽

 

王莽(おうもう)が建国した(しん)からふたたび国を取り返して、光武帝(こうぶてい)後漢(ごかん)を建国したのは紀元25年のことでした。三国志の物語が始まるのは12代皇帝の霊帝(れいてい)のころ。前漢(ぜんかん)からあわせると400年近く続いた漢の国が弱体化した時代でした。

 

魏の皇帝になる曹丕

 

そして曹操(そうそう)の息子の曹丕(そうひ)が、220年に漢に代わって()という国を建国します。このとき漢から魏に「禅譲ぜんじょう)」が行われました。今でも海外の政治のニュースで使われる言葉ですが、世界の歴史を振り返ってみても、禅譲は中国独特の現象でした。そんな禅譲とはどんなものだったのかを紹介します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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禅譲という平和的なクーデター

敗北し倒れている兵士達b(モブ)

 

禅譲とは、ある王朝が次の王朝へ平和的に国を譲ることを言います。選挙というシステムがなかった時代には、世界のほとんどでは武力によって前の国が打倒され、新しく国を作られてきました。もちろん中国でもそのパターンがほとんどでした。

 

曹丕と仲良く文通する呉質

 

中国では武力で新しい国ができることを禅譲とは逆のものとして、

 

放伐(ほうじゅう)」と呼んでいました。

 

禅譲は中国の伝説上の国である、(ぎょう)(しゅん)に、そして舜が()へと国を譲った逸話がもとになっています。どちらのときも、血のつながりがないけど、トップとして有能な人に王座を渡したんですね。とはいえ、歴史の現実的な禅譲はというと、なごやかな雰囲気の中で、

 

「じゃあ、中国のことよろしくね」とバトンタッチされたわけではなく、結局は力で勝てなくなってしまった相手に泣く泣く国を譲っていたのが現実でした。

 



曹操による後漢王朝の無力化

献帝

 

後漢王朝のラストエンペラー14代皇帝の献帝は霊帝の次男。劉協(りゅうきょう)という名前を持っていました。宦官の十常侍(じゅうじょうじ)と霊帝の皇后(こうごう)の兄である何進(かしん)の権力闘争の結果、漁夫の利(ぎょふのり)をさらった董卓(とうたく)が自分の操り人形にするために即位させたのが、8歳だった劉協でした。

献帝

 

献帝となった後も権力闘争に巻き込まれ、ようやく曹操に保護されて安心できるようになったと思ったら、次第にその曹操の野心に飲み込まれてしまいます。

 

献帝

 

宮廷の実権は曹操に握られてしまい、彼を丞相(じょうしょう)魏公(ぎこう)(ぎおう)とどんどん大きな権力を与えなくてはいけなくなったのでした。さらに皇后を曹操に殺され、曹操の娘の曹節(そうせつ)を妻に迎えさせられたことで、実質的にはもう献帝は名ばかりの存在となっていました。

 

死期を悟る曹操

 

220年に曹操は死去しますが、曹家の権力は健在なままでした。

 

禅譲で魏が誕生

司馬懿と曹丕

 

もはや風前の灯火となってしまった漢王朝。『三国志演義』では、魏の軍師である司馬懿(しばい)は帝位につくよう曹丕を促します。司馬懿の意を受けた華歆(かきん)朝議(ちょうぎ)の場で献帝のことを「暗愚(あんぐ
)
」だとののしります。

 

献帝

 

すでに曹丕に逆らえない文官たちもそろって献帝にブーイングを浴びせます。そして華歆は「無能な王は徳を備えた曹丕様に国を譲るのが天命というものですぞ!」と迫ります。なんとも生々しいシーンで、献帝もかわいそうですが、有徳の人物に王座を譲るという禅譲の建て前を作っておきたかったんですね。

漢失礼な兵士に官位を要求され困る献帝

 

たったひとり、皇后の曹節だけが兄の曹丕に抗議しますが、圧倒的な圧力の前に献帝は禅譲を決意。曹操が死んだその同じ年に、皇帝の証である玉璽(ぎょくじ)を曹丕に渡したのでした。

 

献帝

 

献帝は劉協の名前に戻り、曹節と最期まで暮らしたそうです。これによって後漢王朝は滅び、曹丕は文帝(ぶんてい)として()の皇帝に即位します。

斉王になる司馬攸

 

そんな魏も、わずか45年後に5代皇帝曹奐(そうかん)の時代に、司馬懿の孫の司馬炎(しばえん)に迫られて禅譲して魏は滅亡したのでした。

 

三国志ライターたまっこの独り言

たまっこ f

 

本当のところはどう考えても平和的ではないけれど、禅譲のおかげで戦いが少しは少なくなっているのかなとも思います。武力で国が滅ぶよりも、禅譲はなんだか物悲しいドラマがあります。

 

関連記事:司馬炎の皇位は「譲ってもらったもの」?中国史のフシギな言葉「禅譲」の意味を考える

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はじめての漢王朝

 

 

 

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たまっこ

KOEIのゲームから歴史に興味を持ち始め、 吉川英治の「黒田如水」を読んで以来、歴史にどっぷり。 最近はローマ史がお気に入り。 外国からの観光客に日本の歴史を伝えるお仕事も そのうちできたらなぁ、と思ってます。 好きな歴史人物: ユリウス・カエサル、竹中半兵衛、葛飾北斎、エイブラハム・リンカーンなど 何か一言: 歴史には、 自分には到底できない生き方をした人がゴロゴロいて、 飽くことがありません。

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