「元寇」と言うと、ある日突然モンゴル軍が海を渡って侵略してきた、というイメージを持つ人も多いのではないでしょうか?
しかし、史実を見てみると、日本とモンゴルが戦うまでには意外な経緯があったことがわかります。そして、モンゴルが日本を攻めたのはデマが原因だった!?あまり知られてない「元寇前夜」を解説します。
この記事の目次
「元寇」という言葉を作ったのは、時代劇でおなじみのあの人物だった?
元寇は鎌倉時代の出来事ですが、このモンゴル帝国が行った日本侵攻は、長らく「蒙古襲来」「異賊襲来」「蒙古合戦」などと呼ばれていました。「蒙古」とは、「モンゴル」に対する中国語の当て字です。
このモンゴル軍の日本侵攻を最初に「元寇」と最初に呼称したのは、テレビドラマ「水戸黄門」でおなじみ、徳川光圀であると言われています。彼が編纂した『大日本史』という歴史書に、クビライ・カーンが改めた国号である「元」と、侵略行為を示す名詞である「寇」をあわせた造語として用いられていました。
モンゴル帝国=元の皇帝であるクビライが日本への侵攻を思い立ってから、実際に侵攻が行われるまでには約10年の時間がかかっています。その間、クビライは6回にもわたって日本に使節を派遣していますが、これが一筋縄ではいかない展開を辿ることになります。
第1回使節~属国のサボタージュで日本には来られず?
最初の使節は1266年(文永3年)、クビライからの国書を携えた使節は、当時モンゴル帝国の属国であった朝鮮の国、高麗を経由して日本へと向かうはず、でした。
使節を日本へ案内するはずだった高麗には重大な懸念がありました。それは、クビライによる日本侵攻が実現してしまうと、自分たちが莫大な軍事費を負担させられるのでは?というもの。
何とかして日本侵攻を諦めさせようと、高麗国王。元宗は案内役に命じて使節を朝鮮半島の巨済島に案内して海を見せながら「海が荒れていて危険でしょ?」とか、「日本人は荒っぽくて礼儀知らずの連中ですよ?」とか、口八丁手八丁、日本に行く価値はないと言わせました。結局使節は上手く丸め込まれてしまい、日本に渡ることなく帰国します。
ところが。クビライは最初から元宗がサボタージュをすることを見抜いていました。だから予め元宗に対し、「海が荒れているから、とか言う理由で日本行きを止めるなんて事は許さん」と、厳命してあったのです。にもかかわらず、日本に渡ることを拒否した高麗のやり方にクビライは激怒、今度は高麗から日本に使節を送るよう、命じたのでした。
第2回使節~国書たらい回しの挙げ句シカトぶっこいた鎌倉幕府?
1268年、高麗から派遣された使節団が九州の太宰府へと到着。太宰府の奉行はクビライからの国書を受け取ると、鎌倉に送りました。この当時、他国との関係=外交を担当していたのは幕府ではなく、朝廷でした。幕府の執権であった北条時宗は国書を朝廷に転送。朝廷では、モンゴル帝国に対しどう対応するべきか、連日会議が重ねられました。ところが、結局幕府が決定に介入、使節に対して「回答しない」という選択をすることになります。
この頃、日本では中東やヨーロッパを席巻したモンゴル軍の恐ろしさが良く知られていなかったようです。国書を無視すれば当然、モンゴル軍による侵攻があることは北条時宗も理解しており、鎌倉幕府は九州に「異国警固番役」を置いて防衛体制を敷くことになりますが、その規模はモングル軍をなめきったものであったようです。
ともあれ、7ヶ月もの間、幕府からシカトされた使節団は役目を果たせないまま高麗に帰国。しかし、しびれを切らしたクビライは、使節団の帰国よりも前に日本への出兵を決断、高麗に軍船1000隻の建造を命じていたのでした。
第3回使節~日本人二人を拉致
1269年に、クビライは3度めの使節を日本に派遣。しかし、これを予想していた日本側は、使節団を対馬に足止めして入国させませんでした。使節団と日本側で喧嘩騒ぎが起こり、このとき使節団は塔二郎と弥二郎という、2人の日本人を拉致し、そのまま本国へ連れ帰ってしまいます。
使節団が日本人を連れ帰ったことに、クビライは何故か?大喜び。
塔二郎と弥二郎にたくさんの宝物を与え、自分の宮殿や城などを見学させたといいます。クビライが二人を歓待して、宮殿や城を見せたのは、国力の差異を日本人に見せつけ、日本に降伏を迫る意図があったのかもしれません。クビライには日本などひねり潰す自信があったでしょうが、できることなら兵力を消費することなく、相手を屈服させた方が良いに決まっています。事実、第4回の使節は、塔二郎と弥二郎を日本に送り届けることを名目として送られることになります。
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