「麒麟がくる」の第14話は、斎藤利政と織田信長が初めて会見した聖徳寺の場面が描かれます。この場面、信長が舅の利政と出会うと同時に、二人のメジャー戦国大名の登場でもありました。その二人とは前田利家と佐々成政です。
今回は、こちらの両名から佐々成政について分かりやすく解説します。
この記事の目次
尾張の土豪比良城主として織田家に仕える
佐々成政は、尾張国春日井郡比良城に拠点をおいた土豪、佐々成宗の子として天文五年(1536年または1539年)に誕生します。元々は、岩倉織田家の織田信安に仕えていたとも言いますが定かではありません。
佐々成政は三男坊でしたが、兄二人が相次いで戦死したので、永禄3年(1560年)に家督を継いで比良城主となります。成政は、若くして信長に仕え馬廻衆から戦功を積み重ねていき、永禄4年には森部の戦いで敵将、稲葉又右衛門を同僚の池田恒興と共に討ち取る手柄を立てます。
その功績もあり、永禄10年には生え抜きのエリート黒母衣衆の一員に抜擢を受け、能力主義の織田家の気風の中で出世街道を進む事になります。
元亀元年(1570年)6月の姉川の戦いに先立つ「八相山の退口」では梁田広正、中条家忠等とともに少数の馬廻衆を率いて殿軍に参加鉄砲隊を用いて活躍、天正5年(1575年)5月の長篠の戦いでは、前田利家、野々村正成、福富秀勝、塙直政のような黒母衣衆と鉄砲隊を率い活躍しました。
しかし、その前年には長島一向一揆との戦いで嫡男の松千代丸が戦死するという悲しみも味わっています。
柴田勝家の与力となる
天正3年(1575年)9月、織田信長は越前国制圧後、柴田勝家を置いて北陸方面軍団長とします。日本全国で戦う事になった信長は、とても一人で全ての敵と戦う事が出来ないので、柴田勝家に北陸の制圧を任せたのです。
信長は勝家を補佐する与力・目付として前田利家、佐々成政、不破光治の3人を府中3人衆とし、越前府中の33000石を分け与えました。成政は小丸城を築いて居城とします。しかし、府中3人衆は勝家の与力とはいえ、半分は独立した遊軍で成政も信長の命令で石山合戦や播磨国平定、荒木村重討伐に参加し、忙しい状態でした。
天正5年8月、柴田勝家は能登に侵入した上杉謙信を攻める為に加賀国に侵攻したものの、七尾城陥落の報告を受け撤退しました。
越中一国の支配を認められる
天正8年(1580年)成政は、神保長住の助勢として一向一揆及び、上杉氏に対する最前線の越中国平定に関わり、天正9年2月、成政は正式に越中半国を与えられます。
天正10年3月、越中守護だった神保長住は、密かに上杉に通じていた部下の小島職鎮、唐人親広らに富山城を急襲され捕らえられます。間もなく織田軍の反攻で助けられたものの、不覚であると信長に叱責され長住は失脚追放。代わって佐々成政は越中守護となり富山城を居城とし戦国大名にのし上がります。
しかし、順風満帆だったのもつかの間、天正10年の6月には本能寺の変が起こり信長が明智光秀に討たれて横死しました。
この頃、柴田勝家の北陸方面軍は、上杉軍の最後の拠点である魚津城を3カ月の攻囲戦の末に攻略したばかりでしたが、信長の死を知ると与力武将は続々と自分の領地に引き上げ、成政は逆に上杉軍の反撃を受ける事になり身動きが取れなくなります。
この中で柴田勝家は、なんとか上洛を図りますが、毛利氏と和睦して中国大返しを実現して明智光秀を討ち滅ぼした羽柴秀吉に先を越されました。タイミングが悪かったですね。
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