三国志演義では蜀の終わりが物語の終わりとも言えるので、最後の方は諸葛亮の後継者として姜維が何度も北伐を繰り返すも成功せず、止む無く終焉を迎えるような描かれ方をして終わってしまいます。
また劉禅の最後の話もあって、この姜維に対する同情が強くなってしまいますね。しかし実際には姜維は諸葛亮の後継者ではなく、今回は姜維に付いて、そして同時に姜維に諸葛亮が期待したものは何だったのかも考えていきたいと思います。
高く評価されていた姜維
諸葛亮が228年に行った北伐の際に、北伐こそ成功しなかったものの、姜維を手に入れられた、と喜んだと言われるほどの人物であり、特に夷陵の戦いで次世代を多く失ったために人材不足甚だしい蜀にとってはありがたい存在だったのでしょう。
「仕事には忠実である。細かいことにも気が配れる。兵を指揮するのが上手い。度胸がある。兵たちの気持ちをよく考えている。涼州で最高の人物」とまでほめそやしました。また後に鍾会にも高い評価をされたのが姜維です。
ただし後世には・・・
しかし後の世では姜維の評価は難しいこととなりました。陳寿などはむやみに外征を行ったことで蜀を疲弊させたと言い、蜀の崩壊を早めた人物と言っています。
その一方で裴松之らは姜維の弁護をしていることもあり、三国志ファンでも姜維の評価は分かれていることが多いですね。北伐が成功しなかったために国力を減退させてしまったと思うべきか、北伐を成功させる以外にその道はなかったと思うべきかで判断が分かれる武将だと思います。
蜀という国の在り方
ただし個人的には、国力を疲弊させたとは言え蜀は北伐をやらなければならなかったのでは、と考えています。というのも蜀は蜀漢、漢王朝の末裔であると主張し、魏の正当性を否定しているということが国としての在り方、つまり魏の存在を認めてはいけないのです。
この国の在り方として北伐を繰り返したのは仕方ないこととも言えるのではないか、と思いますね。国として団結するには魏への対立が無くてはなかったのではないでしょうか。
姜維の「不幸」
そして筆者は姜維の最大よりも一つ前の不幸が、降伏した武将であったことだと思うのです。よりにもよって魏から降った姜維は、諸葛亮亡き後には居場所がなかったのではないでしょうか。
自分の存在意義を示すためには諸葛亮の北伐を成功させるしかない、それこそが姜維の存在意義だったのでしょう。成功させなければいけない、成功できないと言ってしまえば存在意義を失う。姜維の不幸はここにあったのではないのでしょうか。そして、最大の不幸はこの状況にあって敵に鄧艾が存在したこと、だと思います。
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