蜀(221年~263年)の炎興元年(263年)に蜀は魏(220年)の鄧艾の攻撃を受けて降伏。ここに劉備が建国した蜀は滅亡しました。
しかし魏の咸熙元年(264年)に蜀の遺臣である姜維は魏の将軍の鍾会とタッグを組んで反乱を計画しました。だが、反乱は失敗に終わり姜維も鍾会も殺害されてしまいます。
やがて時は流れて西魏(535年~556年)宇文泰という人物が姜維を祀って開明王と贈ります。ところで、姜維を祀った宇文泰とは何者でしょうか?
今回は宇文泰について解説します。
匈奴系の子孫
宇文泰は漢人ではありません。「宇文」という名字は匈奴系の異民族が使用しているものです。ちなみに宇文泰は三国時代(220年~280年)でも西晋(265年~316年)の人物でもなく、北魏(386~534年)末から西魏初期にかけての政治家です。若い時は父に従い挙兵しますが、父が戦没すると今度は賀抜岳という武将のもとで働きました。
建明元年(530年)にそれまで北魏の実権を握っていた爾朱栄が北魏第9第皇帝孝荘帝により殺害されます。孝荘帝は間もなく、爾朱栄一派により返り討ちにあいました。後を継いだ皇帝たちは弱体であり長続きしません。だが、第13皇帝孝武帝の時代までには爾朱栄一派の殲滅に成功しました。この時、孝武帝が寵愛したのは宇文泰の上司の賀抜岳です。賀抜岳と仲が悪かったのは高歓という人物であり、高歓は賀抜岳の排除を考えました。
北魏の分裂
永熙3年(534年)に大事件が起きました。宇文泰の上司である賀抜岳が、高歓が放った刺客の手にかかり殺害されたのです。上司を失ったことで軍中は大混乱!この時にみんなが次の総大将に祭り上げたのが、宇文泰です。
宇文泰は孝武帝に対して高歓を討つことを表明!一方、高歓も新しい皇帝として孝静帝を擁立。ここに北魏は東西に分かれました。高歓が率いた魏を後世の史家は東魏(534年~550年)と呼びます。宇文泰は最初は孝武帝と協力していましたが、勢力を拡大するにつれて孝武帝と仲違いするようになりました。
最終的には孝武帝を殺害。普通ならば自分で新しい王朝を創ってもおかしくないのですが、宇文泰はそれをせずに北魏の一族から皇帝を擁立しました。
もちろん皇帝は傀儡です。この点は曹操に似ています。後世の史家は宇文泰が率いた魏を西魏と呼んでいます。
西魏から北周へ
宇文泰は生前に様々なことを行いました。独狐信などの異民族官僚を軍隊で抜擢します。独狐信の七女は隋の初代皇帝文帝の皇后、四女は唐の初代皇帝李淵の母です。異民族だけしか利用しなかったのかと思えばそうでもなく、実は漢人に対しても平等に扱っており漢人官僚の抜擢にも努めていました。
これだけのことをやったのに、彼は皇帝になりませんでした。もちろん自分だってなりたかったでしょうが、寿命があるので後世の人に託すことにしたのでしょう。西魏の恭帝3年(556年)に宇文泰はこの世を去りました。53歳の生涯でした。後を継いだ子の宇文覚が西魏を自然解体させて新しい王朝である北周(556年~581年)を誕生させます。
南北朝史ライター 晃の独り言
今回は超絶マイナーキャラである宇文泰について解説しました。ウィキペディアで宇文泰の名前を見た時に、絶対にやりたいと思いました。なんとかやる機会がないか模索していましたが、こうやって執筆することが出来ました。またいつか書く機会があれば挑戦したいです。
※参考文献
・大川富士夫「西魏における宇文泰の漢化政策について」(『大正大学文学部論叢』7 1957年)
・谷川道雄「拓跋国家の展開と貴族制の再編」(『岩波講座世界歴史5 古代5』岩波書店 1970年)
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