三国志演義において、袁術ほど存在が貶められギャグ化している人物はいません。
例えば袁術が洛陽の枯れ井戸の底から孫堅が拾った伝国の玉璽を孫策を介して手に入れて、それで有頂天になって天子を自称したなんて話は、いくら何でも袁術はそこまでアホじゃないと呆れた程でした。ただ、三国志演義の執筆者は、当時の史料を様々に読み込んで創作に活かしており、袁術が伝国の玉璽を持っていたという話も、まんざら嘘でもないのです。
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後漢書徐璆伝にある袁術の伝国の玉璽
それは、後漢書の徐璆伝に登場します。この徐璆という人物は典型的な清流派の士大夫であり、三公府から招聘された程の人物で、仲常侍の張忠が不正蓄財しているのを東太后が見逃すように命じても一切見逃さず、その報復でクビにされたり、黄巾の乱では中郎将の朱儁と賊将の韓忠を宛で撃破したりと、中々有能な人物です。
このような事もあり、献帝が許に遷都すると召されて挺尉とされるのですが、許に向かう途中に抑留マニアの袁術に捕まり袁術が滅ぶまで一回休み状態になりました。やがて、袁術が滅んだ時、徐璆が見つけ出し献帝に返したのが伝国の玉璽なのです。
ただの玉璽ではない伝国の玉璽
後漢書の記述によると、
袁術軍が崩壊すると徐璆は袁術が盗んだ伝国の玉璽を得て、許に向かい、汝南と東海二郡の印綬と共に献帝に返還した。
とあり、自分が汝南太守・東海相だった時代の印綬も含めて、律儀に返還した事が分かる内容になっていますが、注目すべきは後漢書では袁術が盗んだ伝国の玉璽となっている事です。
玉璽と言えど、所詮はハンコなので、造ろうと思えば造れます。実際に劉備も孫権も皇帝に即位するに辺り、漢水の底に沈んで光を放っていたとか、色々嘘臭い伝説をまぶして正統性をつけて保持していたのです。
ただし、袁術の場合は異なり、尾崎豊よろしく、盗んだ玉璽で走りだしているわけですから、この玉璽は袁術が手作りしたのではなく、後漢王朝から連綿と続く正真正銘の玉璽という事になります。
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三国志武帝紀では、玉璽は袁術の手づくり
袁術の保有していた玉璽の事は、三国志武帝紀が引く先賢行状にも登場しますが、ここでは、徐璆が見つけたのは、ただの袁術の玉璽という事になっていますし、もちろん盗んだという記述もありません。
つまりは、正史三国志の頃には、袁術の玉璽は手作り玉璽で、漢王朝から引き継いだ正当なものではないと評価されていた事になります。
史書の順番でいけば、正史三国志に比較して後漢書は300年以上後に成立しているので、後漢書の編成の頃には、袁術の玉璽は手作りではなく、後漢から引き継いだモノであるという認識だったわけです。
伝国の玉璽が袁術の野望を後押し
そして、この玉璽は袁術の手から徐璆を仲介して本来の持ち主である献帝の手元に戻ったのであり、三国志演義の言う、孫堅が洛陽の枯れ井戸の底から見つけたというのは虚構としても、どこかの時点で献帝の玉璽が袁術に渡っていた可能性があり、袁術はそれに運命を感じて皇帝即位した可能性も否定できなくなります。
そうでなくても、スピリチャルな事を根拠に皇帝即位を正当化していた袁術ですから、モノホンの伝国の玉璽を手にした時に、これは正に天が朕に地上を治めよと命じた証、なんちて、なんちて、ウヒョ!と思った可能性大ですね。
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