キングダムでもお馴染み李牧が率いている強国趙、この趙は紀元前228年に王翦により滅亡に追い込まれる事になります。滅亡の順番としては韓に続いて2番目です。でも、よく考えると妙な順番ですね?
趙よりも弱小な魏が何故か飛ばされています。実際に魏が滅ぶのは紀元前225年で趙よりも3年も後でした。なんで、こんなちぐはぐな攻め方になっているのでしょうか?
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史記を調べてみると意外な事が判明
さて、どうして秦は魏を放置して趙を攻めたのでしょうか?
それほどまでに李牧が憎かったのかと思えば、そうではなく、実際には趙を攻める前段階で魏は虫の息であり、大梁に籠城するしかなかったのです。魏に残っている城は王都の大梁以外では、桂陵、濮陽、承匡、林、安陵、長社、昆陽、魯陽、襄陵と十城しかなく、さらには、その前の紀元前242年の段階で、二十以上の城市を奪われ、翌年には穀倉地帯の朝歌まで蒙驁に奪われていました。
同年には、趙、楚、燕、韓と合従して秦を攻めたものの敗北していて、ここで貴重な戦力を失っています。単純に考えても、30以上あった城が20以上も奪われ1/3になっては、さすがに虫の息になるでしょう。
さらに王都の大梁は伊水の南なので、魏が秦に出兵するには渡河の必要があり秦は見張りの軍勢を置くだけで、十分に魏を抑止できたと考えられます。
趙を滅ぼしたのは地震と大飢饉
しかし、いかに魏が弱体化していたとはいえ、順番から考えれば趙より遥かに弱っている魏を先に滅ぼし、背後を完全に安全にしてからという選択肢もあった筈です。つまり、弱小の魏を滅ぼすのを差し置いて趙に飛びついた理由があったのでしょう。kawausoは、再び史記を調べてみて見つけました。
実は趙では、紀元前231年に代の地で大地震が発生し家屋の全壊、半壊が多く出る大地震があり、その影響で紀元前230年には趙で大飢饉が発生します。
その当時の趙の民の言葉として、
趙は泣き秦は笑う、信じられないならば穀物の芽が出ないのを見るがいい
このようにあり、飢饉が深刻であった事が分かります。
李牧は地震の前年の紀元前232年に、番吾を攻めてきた秦軍を撃退し、奪われた趙の領地を奪い返していた矢先で痛恨の大災害でした。
無情にもすぐに攻めてくる王翦と楊端和
さて、趙で大飢饉が起きたと知った秦は、大喜びで軍を出撃させます。それも二正面作戦であり、かつて魏から奪った東郡からは楊端和が出撃して邯鄲城を包囲し、王翦は太行山脈を越えて井陘を陥落させて、李牧や司馬尚と対峙します。
兵糧が乏しい中で李牧は王翦の攻撃を抑えていますが、さすがにこれを押し返して撃破するだけの物資がなく、攻めあぐねた王翦は邯鄲の郭開に賄賂を贈り、王翦と司馬尚を排除するように依頼。
郭開は李牧が積極攻勢に転じないのは、謀反を企んでいるのだと幽繆王を騙して、李牧を更迭、王族の趙忽及び斉の将軍顔聚と交代させようとしますが、李牧が従わないのでこれを殺害したとあります。
それもこれも、大地震とそれに続く大飢饉さえなければ、秦は攻めてこなかったでしょうし、攻めてきても趙は積極攻勢に出れたかも知れません。趙には運がなかったのです。
秦王政は魏をザコ扱い
しかし、趙忽と顔聚は王翦の敵ではなく、あっさりと撃破され邯鄲は陥落しました。その後、王翦は羌瘣とコンビで、残っている趙の都市をひとつづつ攻略し、東陽という土地で幽繆王を捕らえ趙は滅亡します。
さらに王翦は休む間もなく燕を攻めようとして、中山に兵を進めて進駐しました。ここで、秦王政がのこのこ咸陽から邯鄲に入城しています。伊水を挟んで南は魏の領地なんですが、なめられたもので、大軍を率いているでもなくほぼ警戒していません。
ここで秦王政が何をしたかというと趙の人質だった頃に自分や母を虐待した連中を探し出して生き埋めにするという個人的な復讐でした。秦が趙を併合した紀元前228年にも、趙ではやはり飢饉が起こっています。
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