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晩年の野望と王淩の最期
王淩と令孤愚は結託して、曹芳を廃位。才能ある曹彪を新しい皇帝にする計画を立てました。曹彪は曹操の息子の1人であり、曹丕の異母弟です。
だが、計画しているうちに令狐愚は病死。仲間を失った王淩は事業を引き継ぎます。魏の嘉平3年(251年)に呉軍が出兵します。討伐している間にクーデターを起こそうと考えた王淩は呉軍討伐の上奏を行いますが、残念ながら軍の出動許可は出ませんでした。
失敗してあせってしまったのか、王淩は将軍の楊弘と令狐愚の後を継いで兗州刺史になった黄華にクーデターの件を打ち明けます。
すると2人は王淩に加担するどころか、巻き添えになることを嫌がって司馬懿のもとに駆け込みダッシュ!こうして王淩のクーデターは発覚!司馬懿は軍を指揮して王淩を包囲しました。死を覚悟した王淩は謝罪。護送途中で服毒自殺して果てました。享年80歳。
王淩の父母・妻子・姉妹兄弟も殺されたとのことでした。
ただし、姉妹兄弟の中で郭淮に嫁いでいた妹だけが郭淮と子の助命により助かったようです。
西晋における太原王氏
三国時代(220年~280年)が終わって、西晋の世になると王允と王淩の一族である太原王氏は全盛を迎えます。
西晋に王渾という人物がいました。彼は呉の討伐で大した働きを示さなかったのですが、長期間に渡り地方官として頑張ったことから西晋初代皇帝である司馬炎に非常に気に入られたのでした。おかげで王渾は司徒まで昇進。太原王氏の地位を不動にしました。
人間失格 王済
王渾の息子に王済という人物がいます。イケメンで武芸・学問が得意であり、司馬炎の娘婿です。ただし「学問」といっても儒学ではなく老荘思想です。西晋の時期に流行っていた老荘思想は前漢(前202年~後8年)のものとは全く別であり、最先端の学問でした。現代で例えるのならプログラミングを学ぶ感じです。
王済は20歳で役人になりました。もちろん、これはコネです。司馬炎の娘婿という立場と太原王氏というブランドが役に立ったのでしょう。ところが、王済は難点がありました。それは平気な顔で人を傷つける言動を吐くのです。政治家というより人間として失格でした。
政治家人生も長くなかったらしく、すぐにクビにされています。その後は洛陽北部の山に隠居生活。羊の乳のヨーグルトや母乳で育てた豚の丸焼きを食べるなど、贅沢の極みを尽くしたそうです。
類は類を呼ぶ
王済のようなKYな人間に友達はいないのは当然!しかし、なぜかこんな男でも分かり合える無二の親友がいました。名前は孫楚。王済は孫楚を尊敬しており、孫楚も王済を尊敬する。一般人から見れば、わけが分からん関係でした。
ちなみに王済は父の王渾よりも早く亡くなります。孫楚は王済の葬式に駆け付けると、「君は私がやっていたロバの鳴きまねが好きだったな。やってあげるよ」と言ってやってあげます。周囲の人々は孫楚のモノマネで大爆笑して拍手喝采。だが次の瞬間、孫楚は驚愕の発言。
「王済じゃなくて、てめえらが死ねば良かった」
結局、孫楚は周囲の人々を怒らせることになりました。やっぱり友人もKYな人間だったのでした。
三国志ライター 晃の独り言
孫楚の話で私が驚いたのは、そもそも彼の葬式に人が来ることでした。生前、散々KYなことをしてきたので、こんな人間の葬式なんて誰も来るはずがありません。お金を出すだけ無駄です。おそらく、父親の王渾に世話になった人がたくさんいたので、その関係で来ただけだと私は考えています。
王渾もバカ息子を持って可哀そうですね(泣)
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