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この記事の目次
17才で家督を継いだ伊達政宗
伊達政宗は17才で家督相続した。これは本当です。父の輝宗は、外交上の失策から苦しい立場に追い込まれていました。それを、隠居することで許してくれというようなメッセージを発する意味があったといわれています。
政宗は、幼少のころより非凡だといわれていました。そして、自らもそうだ、周りは凡人ばかりで自分だけが天才だと思っていました。そんな、若く血気盛んな政宗に家督を譲ったことで、この後大きな混乱が生まれることにもなります。
伊達政宗の逸話:小手森城の撫で斬り(皆殺し)
この答え合わせをする前に、伊達氏に関係する人物関係を整理させてください。現在でいう東北地方は、城単位の諸大名が乱立しているような状態でした。今なら1つの市ぐらいが、1つの国のような感覚です。
伊達氏もその内の1つだと考えてください。それでも、今の県のような単位で領地を持っている人もいました。田村氏という、日本史を遡れば必ず目にすることがある、坂上田村麻呂という初代の征夷大将軍に連なる一族です。
輝宗はこの田村氏に近づきます。そうです、政宗の正室は当時の田村氏の娘なのです。ここで、田村氏と伊達氏とは血のつながりのある同盟関係になりました。しかし、その一方、田村氏の支配から抜け出して、自分たちだけで生きていきたいと考える人たちが出てきます。
その代表格が、小浜城の大内氏と、二本松城の畠山氏でした。両者は結託し、さらに伊達家と縁の深い蘆名氏も引き入れます。不安に思った輝宗が、蘆名氏と交渉しますが、上手くいきません。すぐに、煮え切らない態度に我慢できなくなった若い政宗は、蘆名氏を攻めることを宣言します。輝宗も家臣も驚きます。
「え、本当に?」
長年同盟関係にあり、お互いに気心のしれた仲です。一緒に参戦して、力を合わせて戦ったこともあります。ですが、そういったことを踏まえた上で、政宗は逆の方向に針を振り切ることを決断します。やるなら徹底的にやる。
そうして、行われたのが「小手森城の撫で斬り」です。答えが遅くなってすみません。これは、本当の話とされています。籠城して、城に逃げ込んだ町民や農民までも、1人残らず殺したそうです。1説には、その数は800人以上だったとも(八百人斬り)。
これは、大内氏や畠山氏への見せしめであったともいわれています。このとき政宗19才です。そしてまた、この過激さが父輝宗の死に関係してきます。
拉致されかけた輝宗を、犯人と一緒に撃ち殺した?
これはおおよそ真実だといわれています。政宗自身も現場に居合わせたのか、部下たちだけだったのか、輝宗が自分もろとも撃てと言ったのか、はっきりとした真相は分かっていません。ですが、拉致されていく輝宗を犯人ともども鉄砲で全員撃ち殺したことは変わりがありません。
これにより政宗が苛烈で、激しい行動をするという印象がつきまとうことになります。そうそう、輝宗を拉致した犯人は、先に出てきた畠山氏です。畠山氏は、小手森城の撫で斬りを見て、政宗に和睦を申し出ます。
その後、謝罪と称して輝宗の元を訪れるのです。事件はそのときに起きました。畠山氏は、最初から輝宗を拉致して事態を自分たちの思うように進めたいと計画していたと考えられます。ですので、政宗の鷹狩りの日を狙って行ったといわれています。
政宗は、報告を受け鷹狩りから急いで取って返し、怒りの中、難しい判断を迫られることになります。もし、あなたならどうしますか?
これからは仲良くしていきたいと言ってきた人物が、今まさに父親を拉致していこうとしている。
それは阻止しないといけない。政宗は、部下に発砲を許可します。輝宗は、その中で死去します。この後、政宗は領土拡大路線を突き進んでいくことになります。
伊達政宗は関東進出を考えていた
これは本当です。政宗は家臣に対して送った手紙の中で『須賀川まで打って出て関東中を手に入れるのも容易いことだ』と書いてあることが残っています。
1587年に豊臣秀吉が「惣無事令」という通達が出されます。これは、簡単に言うと、戦をすると攻めちゃうよ、ということです。主に、領土拡大を続けようとする、北条氏と伊達氏に対しての警告といわれています。ですが、政宗は遠方だという理由でこれを無視。足元の戦を続けます。しかし、2年後の1589年に事態は大きく動きます。
小田原攻めの際に、白装束で秀吉の元に参上した
これは、半分本当です。詳しく解説していきます。戦国時代の流れで描かれる際には、この頃に政宗は東北地方全域を支配下に治め、天下取りに動き出していたというぐらいにまでになっています。ですが、政宗としては現在の福島県すら安定して押さえきれていないというのが実感でした。
まあでも、自分は天才だし、東北地方や関東地方にも領土拡大して、最終的には天下統一までしてやろうと思っていました。その中での「惣無事令」。そして、それに違反した北条氏(後北条氏)を秀吉が攻めることになりました。北条氏も、領土拡大を狙って関東で戦を続けていたのです。
政宗は考えます。北条氏が負ければ、次に攻められるのは自分かもしれない。だが、北条氏は強い。あっさりと負けることはないだろう。しかも、北条氏の居城、小田原城は天下に名高い難攻不落の名城だ。ここは落とせないだろう。問題は、秀吉にどれほどの軍勢が集められるかだ。
しかし、間者(スパイ)の報告に驚きます。秀吉の軍は、日本中から動員され、総勢20万という大軍となったのです。政宗は、遂に秀吉には勝てないことを悟り、急ぎ小田原に向かいます。しかし、距離的に近いはずの政宗は開戦にすら間に合いませんでした。先ほど、白装束は半分本当と言いましたが、このときは参陣するので甲冑姿です。
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