歴史に「もしも」はないとは言いつつも、ついついあそこでああしていたら、こうしていたらを考えてしまうのは良くあることです。そこで今回のテーマとしては「街亭の戦いで蜀が勝っていたら?」を考えてみたいと思います。今回はかなりスパイシーな内容でお話させて頂きますので、どうぞ口直しのお水を用意してお読み下さい。
この記事の目次
第一次北伐・街亭の戦い
まず初めに北伐、街亭の戦いについて少しおさらいをしましょう。街亭の戦いについては228年春に行われた第一次北伐です。この際に諸葛亮は偽の情報を流し、趙雲らを囮として西から祁山を攻めました。
魏では曹叡が早く行動して曹真らを向かわせ、曹真は蜀に押さえられた北に張コウを向かわせます。
この時に諸葛亮は街亭で張コウを抑えさせるために大軍を馬謖に任せるも、馬謖は諸葛亮の指示には従わず、副将の王平の意見も聞かず、大敗。諸葛亮はこの敗北を聞いて進軍ルートを失ったと軍を引いてこの第一次北伐は終了します。
第一次北伐の諸葛亮の目的は?
さて第一次北伐の流れを簡単に説明しましたが、ここで皆様も気付いたことでしょう。そう「第一次北伐の目的は何か」が、これでは分からないのです。長安まで攻め込める気だったのでしょうか?
それともルートの確保だったのでしょうか?
というか諸葛亮はどう動くつもりだったのでしょうか?
この辺りは書き記されていないので、基本的にこの時の諸葛亮の考えや目的は後世の人々の想像の範疇を出ないのです。
どうして街亭の戦いで馬謖が名を挙げられるのか?
そしてここで少し考えておきたいのが、街亭の戦いに付いてというと良く言われる「馬謖が上手くやれば」「そもそも諸葛亮が馬謖に一部隊を率いさせなければ」という話。
筆者はこの第一次北伐でこのような話になりがちになる理由として、諸葛亮の第一次北伐の目的がいまいちはっきりしていない、諸葛亮の動きがどうだったのかが良く分からない、結果として馬謖が防戦をしろという命令に背いて山に登って負けてしまった、諸葛亮の目的は分からないけどとりあえず馬謖は失態をしたのは間違いない……ということでやたら馬謖がやり玉に挙げられてしまっていると感じます。
第一次北伐の概要とは?
因みに第一次北伐は228年の春に行われ敗北、撤退。そして同年冬に諸葛亮は再び北伐を決行しています。敗北して撤退、そこから立て直して色々な処理をして……と考えると、第一次北伐の行われていた時間はむしろ短い期間で行われたと推測できるのです。
つまり第一次北伐の概要の一つは電撃作戦であったのでは?と思います。時間をかけずに速攻で、魏が対応する前にある程度自陣を固めておきたかった……しかし曹叡が即座に対応、そこから曹真と張コウが諸葛亮の想定以上に早く対応してそこに馬謖の失態まで重なってしまった、というのが第一次北伐の概要ではないかと思うのです。
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