中平元年(184年)に宗教団体「太平道」の教祖である張角は、後漢(25年~220年)に対して反乱を起こします。「黄巾の乱」です。
ただし、本隊である張角軍が壊滅したことから反乱は数か月で鎮圧されました。しかしその後も残党は各地で暴れていき、群雄を苦しめていきます。今回は黄巾の乱の残党で最強だった青州・徐州黄巾軍について解説します。
黄巾の乱の始まり
中平元年(184年)に洛陽に潜入していた黄巾軍のスパイである馬元義は、朝廷の宦官や荊州・揚州の黄巾軍と連絡しながら、3月5日に挙兵する準備を整えていました。
だが、青州黄巾軍の唐周が密告。馬元義や関係者数千人が処刑されます。やむを得ないと判断した張角は、予定を早めて挙兵しました。
反乱の終焉
朝廷も盧植・皇甫嵩・朱儁を前線の指揮官に抜擢。黄巾軍の対応に当たらせます。黄巾軍も最初はイケイケムードで突き進みますが、準備不足がボロに出ました。次々と押されていきます。
とうとう反乱の最中、張角は病死。弟の張宝・張梁も討たれてしまい、反乱は終わりを迎えます。
残党の抵抗
張角病死後も黄巾軍の残党は抵抗を続けました。南陽郡の太守を殺して暴れていた張曼成は張角死後、自ら「神城使」と名乗り抵抗を続けます。しかし新任の南陽郡太守である秦頡に討たれました。
ところが、今度は趙弘という黄巾軍の大将がやって来てまた神城使と名乗ります。朱儁が苦戦するも倒しますが、今度は韓忠という大将がやって来て抵抗する始末。韓忠も朱儁により倒されますが、次は孫夏という大将と戦います。イタチごっこの連続です。だが、孫夏を倒したところで、南陽郡の戦いはどうにか終了しました。
最強!青州・徐州黄巾軍
しばらくの間、黄巾軍の残党は大人しくしていましたが、中平5年(188年)に青州・徐州で黄巾軍の残党が再び活発な軍事活動を行います。
青州・徐州黄巾軍は最初は北海に現れました。孔融はこの時、自ら出陣しました。孔融は儒学の開祖で有名な孔子の子孫です。
孔融と黄巾軍は対陣してにらみ合いを行い戦線は膠着。しかしこれは黄巾軍の罠でした。主力は孔融の隙を突いて、あっという間に城を陥落させてしまいました。
居城を失った孔融は撤退となります。ちなみに敗北した孔融が援軍を頼んだ相手が、平原の相である劉備です。援軍の話を聞いた劉備は「あの孔融が自分を知っていたのですか?」と凄く喜んだそうです。
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