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公孫瓚の勝利
初平2年(191年)になると、青州・徐州黄巾軍の活動は一層激しくなりました。おそらく、董卓討伐軍の影響もあったのでしょう。
2月には太山郡で攻めてきます。太山太守の応邵は奮戦の末に黄巾軍を撃退。10月には別動隊が渤海に進出します。正史『三国志』に注を付けた裴松之が採用した『英雄記』という史料によると、公孫瓚は、この時黄巾軍と戦って勝利した話が残っています。
また、『水経注』という書物によると、「斬られた黄巾軍は3万、流れた血が水を真っ赤に染めた」と記しています。公孫瓚はこの時の功績で朝廷から奮武将軍に任命されました。
劉岱の戦死と曹操の出陣
公孫瓚に敗北した青州・徐州黄巾軍は半年で態勢を立て直すと、今度は兗州に攻め込みます。手始めに任城国の鄭遂を血祭りにあげました。
兗州刺史の劉岱はこの事態を黙って見過ごすわけにはいきませんでした。急いで出陣の準備をします。この時部下の鮑信が、「敵は略奪だけでまかなっている烏合の衆。まずは籠城して敵が弱るのを待ちましょう」と提案しました。
だが、劉岱はその意見を聞かずに出陣してしまい、討ち死にします。そこで鮑信は友人である曹操に援軍を頼みました。
曹操も参謀の陳宮から「兗州は主を失って動揺しています。曹操様が主になって兗州を足場に天下をとるのがよい」と説得されたので、行くことにしました。
鮑信の戦死
曹操と鮑信は東平国の寿張県で青州・徐州黄巾軍と戦闘になりました。しかし、相手は長年に渡り各地の群雄を苦しめてきた歴戦の強者ばかり。一方、曹操軍は新兵が多く苦戦を強いられました。曹操と鮑信は伏兵で黄巾軍を打ち破ろうとしますが、運悪く黄巾軍本隊に見つかってしまいました。
曹操軍の主力は後方におり間に合わず、鮑信軍が血路を開いてあげます。曹操を逃がすために鮑信は討ち死にしました。
逃げ帰ると曹操は鮑信の遺体を捜索しましたが、残念ながら見つけることは出来ませんでした。そこで代わりの木像を作ってあげて祀ってあげて、さらに鮑信の息子たちにも莫大なお礼をしました。
曹操の勝利と青州軍の創設
さて、曹操はその後、青州・徐州黄巾軍を徹底的に追い詰めました。観念した黄巾軍は曹操に降伏。30万の兵士が降伏、兵士以外の男女100万も連れて帰ります。中国の数字に正確さはありません。
昔は戦果を10倍水増しで報告する慣例があったので、おそらく実際の降伏者はもっと少なかったでしょう。それでも通常より多くの降伏兵を獲得したのは間違いありません。曹操はこの時、降伏した黄巾軍を青州兵と名付けて親衛隊として扱いました。そして彼らは曹操が亡くなるまで戦うことになるのです。
三国志ライター 晃の独り言
曹操の死後、青州兵は即時解散となって彼らは全員故郷に帰ってしまいました。後世の学者たちは曹操と青州・徐州黄巾軍の間で何か密約があったのではないかと推測しています。その密約が何だったのか確たるものは分かっていません。ただし、青州兵は他の兵士と違って特権身分があったと考えられています。
建安2年(197年)に張繍に敗北した曹操は撤退します。撤退途中で于禁軍が青州兵の略奪・暴行にあいました。怒った于禁は青州兵を叩きのめしますが、やられた青州兵は逆恨みで曹操に訴え出たのです。
曹操の物分かりが良かったので于禁は処罰されずに済みますが、上記の件から青州兵は略奪・暴行は認められていた可能性が高いと思われます。読者の皆様はどう思われますか?
文:晃
※参考文献
・石井仁『魏の武帝 曹操』(初出2000年 後に新人物文庫 2010年)
・林田慎之介『人間三国志 民衆の反乱』(集英社 1990年)
・福井重雅「黄巾の乱と伝統の問題」(『東洋史研究』34-1 1975年)
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