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この記事の目次
近代中国での魏延評価
魏延冤罪説はこのように昔から言われていたのです。今度は近代中国での評価を解説しましょう。譚良嘯・張大可という2人の学者は魏延の名誉回復を主張しています。
2人は魏延を「蜀の得難き人材」・「唯一の一騎当千の将軍」・「蜀に対しての忠誠心は変わらず」・「魏延の北伐論は正しい」・「魏延が挙兵したのは蜀ではなく楊儀」と主張ただし、これは感情的に主張しているだけで史料的根拠はゼロ。中国の論文ではよくある話です。
80年代の中国での魏延評価
80年代になると魏延に関して中国では次の5点の評価が出始めました。
(1)歴史上でも魏延は問題のある人物だったが、蜀にとっては大事な人材だった
(2)魏延の文学で作られたイメージを歴史上にまでもってくることは許されない
(3)魏延の北伐論は実行されていない点から、過度の評価をするべきではない。それが成功したかどうかで魏延の評価に影響を与えるべきではない
(4)楊儀ともめたことは魏延の誤りであり、魏延を飾るべきではない
(5)挙兵騒動も魏への投降ではないが、騒動の性質と結果は蜀に対しての「反逆」であり「敵対行動」。つまり、魏延が死んだのは自業自得であり冤罪ではない
要するに魏延の「英雄史観」に対しての疑問点が出ていたのです。これは南宋(1127年~1279年)の岳飛を英雄視することに対しての疑問点と一緒でしょう。
劉禅が魏延の名誉回復をした?
それでも魏延擁護論はあります。諸葛亮の死後、「反逆者」である魏延を討った楊儀は自分こそ諸葛亮こそ諸葛亮の後継者と思って成都に帰ります。
しかし後継者となったのは後輩の蔣琬でした。楊儀は中軍師という職に任命されますが、これは名前だけで職権は無いのです。つまり楊儀は完全に窓際族でした。
費禕が来た時に楊儀は、「丞相(諸葛亮)が死んだ時に自分が魏に行けば良かった」とぼやきます。驚いた費禕は蜀の第2代皇帝である劉禅に密告。楊儀は庶民に落とされました。本来なら死罪でしたが今までの功績から許されたのでした。
だが、それでもブツブツと文句を言っていたので怒った劉禅は逮捕に踏み切ります。楊儀は逮捕される前に自害して果てました。この楊儀の話から以下の2点の見解が出されています。
(1)魏延と楊儀の争いは普段からの個人的な争いの矛盾。魏延に「反逆」の意思は無く、楊儀の考えが浅はかであった。
(2)劉禅が楊儀を処分したのは魏延の名誉回復だった
魏延の名誉回復の証拠が出た?
上記の劉禅による魏延の名誉回復を行った説は確たる証拠が無かったので結論が出ませんでした。ところが、陶喩之という学者が漢中の石馬坡遺跡に魏延の墓があるのを発見。さらに清(1644年~1911年)の王行倹が編纂した『南鄭県志』を解読した結果、あることが判明した。
(1)魏延は蜀の功績ある老将であり反逆者ではない。
(2)墓は蔣琬が作ったもの。蔣琬は魏延の名誉回復を行うために楊儀を殺した。
つまり、魏延は無実だったのである。残念ながら『南鄭県志』にしかこの話は出てこないので、更なる議論の余地は必要と私は考えている。
三国志ライター 晃の独り言
2020年5月13日に中国文学者の井波律子氏がこの世を去られました。享年76歳でした。
井波律子氏は正史『三国志』・『三国志演義』などの翻訳や、中国史を様々な視点から考察されることで有名な学者です。1度もお会いしたことはありませんが、井波氏の翻訳本や概説書、論文で私は多くの知識を得ることが出来ました。ここに今までの謝意を表明致します。最後に謹んでお悔やみ申し上げます。
文:晃
※参考文献
・李殿元・李紹先(著) 和田武司(訳)『三国志考証学』(講談社 1996年)
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