魏延将軍は本当は反乱を起こす気は無かった?

2020年7月13日


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魏延は反乱を起こす気は無かった?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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近代中国での魏延評価

蜀志(蜀書)_書類

 

魏延冤罪説はこのように昔から言われていたのです。今度は近代中国での評価を解説しましょう。譚良嘯(たんりょうしょう)張大可(ちょうだいか)という2人の学者は魏延の名誉回復を主張しています。

 

不満が溜まる魏延

 

2人は魏延を「蜀の得難き人材」・「唯一の一騎当千の将軍」・「蜀に対しての忠誠心は変わらず」・「魏延の北伐論は正しい」・「魏延が挙兵したのは蜀ではなく楊儀」と主張ただし、これは感情的に主張しているだけで史料的根拠はゼロ。中国の論文ではよくある話です。

 



80年代の中国での魏延評価

水滸伝って何? 書類や本

 

80年代になると魏延に関して中国では次の5点の評価が出始めました。

 

(1)歴史上でも魏延は問題のある人物だったが、蜀にとっては大事な人材だった

(2)魏延の文学で作られたイメージを歴史上にまでもってくることは許されない

(3)魏延の北伐論は実行されていない点から、過度の評価をするべきではない。それが成功したかどうかで魏延の評価に影響を与えるべきではない

(4)楊儀ともめたことは魏延の誤りであり、魏延を飾るべきではない

(5)挙兵騒動も魏への投降ではないが、騒動の性質と結果は蜀に対しての「反逆」であり「敵対行動」。つまり、魏延が死んだのは自業自得であり冤罪ではない

 

岳飛(南宋の軍人)

 

要するに魏延の「英雄史観(えいゆうしかん)」に対しての疑問点が出ていたのです。これは南宋(なんそう
)
(1127年~1279年)の岳飛(がくひ)を英雄視することに対しての疑問点と一緒でしょう。

 

劉禅が魏延の名誉回復をした?

楊儀、姜維、費イ

 

それでも魏延擁護論はあります。諸葛亮の死後、「反逆者」である魏延を討った楊儀は自分こそ諸葛亮こそ諸葛亮の後継者と思って成都(せいと)に帰ります。

 

蔣琬(しょうえん)

 

しかし後継者となったのは後輩の蔣琬(しょうえん)でした。楊儀は中軍師という職に任命されますが、これは名前だけで職権は無いのです。つまり楊儀は完全に窓際族でした。

費禕

 

費禕(ひい)が来た時に楊儀は、「丞相(じょうしょう
)
諸葛亮)が死んだ時に自分が魏に行けば良かった」とぼやきます。驚いた費禕は蜀の第2代皇帝である劉禅(りゅうぜん)に密告。楊儀は庶民に落とされました。本来なら死罪でしたが今までの功績から許されたのでした。

 

司馬昭の質問に回答する劉禅

 

だが、それでもブツブツと文句を言っていたので怒った劉禅は逮捕に踏み切ります。楊儀は逮捕される前に自害して果てました。この楊儀の話から以下の2点の見解が出されています。

 

(1)魏延と楊儀の争いは普段からの個人的な争いの矛盾。魏延に「反逆」の意思は無く、楊儀の考えが浅はかであった。

(2)劉禅が楊儀を処分したのは魏延の名誉回復だった

 

魏延の名誉回復の証拠が出た?

西遊記巻物 書物_書類

 

上記の劉禅による魏延の名誉回復を行った説は確たる証拠が無かったので結論が出ませんでした。ところが、陶喩之(とうゆし)という学者が漢中の石馬坡遺跡に魏延の墓があるのを発見。さらに清(1644年~1911年)の王行倹(おうこうけん)が編纂した『南鄭県志(なんていけんし)』を解読した結果、あることが判明した。

 

(1)魏延は蜀の功績ある老将であり反逆者ではない。

(2)墓は蔣琬が作ったもの。蔣琬は魏延の名誉回復を行うために楊儀を殺した。

 

つまり、魏延は無実だったのである。残念ながら『南鄭県志』にしかこの話は出てこないので、更なる議論の余地は必要と私は考えている。

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

2020年5月13日に中国文学者の井波律子(いなみ りつこ)氏がこの世を去られました。享年76歳でした。

 

井波律子氏は正史『三国志』・『三国志演義』などの翻訳や、中国史を様々な視点から考察されることで有名な学者です。1度もお会いしたことはありませんが、井波氏の翻訳本や概説書、論文で私は多くの知識を得ることが出来ました。ここに今までの謝意を表明致します。最後に謹んでお悔やみ申し上げます。

 

文:晃

※参考文献

・李殿元・李紹先(著) 和田武司(訳)『三国志考証学』(講談社 1996年)

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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