この世には「千載不決の議」という言葉があります。1000年経過しても結論が出ない議論のことです。北宋(960年~1127年)の初代皇帝太祖の疑惑の死から出た話だったのですが、今回お話する蜀(221年~263年)の将軍である魏延の反乱もまさにそれに該当します。彼は本当に反乱を起こす気はあったのでしょうか?
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています
この記事の目次
『三国志演義』の魏延
まずは小説から。『三国志演義』に登場する魏延は、「顔は燻製したナツメのようであり、目は明るい星のようにキラキラしている・・・・・・」と表現されている。
なかなか可愛い顔をしています。しかし性格には難点があったらしく、孫権から「勇猛だけど性根は良くない」と評価されています。おまけに諸葛亮の死後は禍を招くとおまけを付けられていました。
また、諸葛亮も魏延の後頭部に「反骨」という骨が突き出ており、将来絶対に反逆する可能性が高いと考えています。顔で人を決めるなんて、諸葛亮の判定は現代だったらもの凄く問題があります。物語だったから良いですけど・・・・・・
だが、蜀の建興12年(234年)に諸葛亮が亡くなると魏延は反乱を起こしました。彼は諸葛亮の側近である楊儀のもとで働きたくなかったのです。
この反乱は諸葛亮の密命を受けていた馬岱が魏延を斬ったことで終わりを迎えましたが、後世の人には良い印象を与えず、マンガ・ドラマ、ゲームの魏延のモデルになっています。
正史『三国志』の魏延
正史『三国志』の魏延も楊儀と対立していたのは事実。しかし、反逆したのか具体的な内容は記されていません。ただし諸葛亮の死後、兵を送り出して楊儀を迎え撃ったので楊儀も王平を出陣させて迎撃。その結果、魏延は王平配下の馬岱に討たれました。
陳寿は反逆したのかどうかは記していません。おそらく歴史家として中立公平に記したのでしょう。
『魏略』の魏延
正史『三国志』に注を付けた裴松之が史料として採用した『魏略』には別の内容が記されています。『魏略』は魏(220年~265年)の魚豢が執筆したものであり近年、研究されている書物です。
雑多な内容が多いので信じられないという意見もありますが、魏が存続していた当時に執筆されているので逆に信ぴょう性があるという意見もあります。
『魏略』によると魏延は諸葛亮の死後、魏延は軍を指揮しようとしますが彼と不仲だった楊儀は放っておくと自分が殺されると考えて、「魏延は魏に投降する」とウソ情報を流します。冤罪をかけられた魏延は、あっさりと殺されました。
司馬光の魏延冤罪説
北宋の司馬光は歴史書『資治通鑑』で「魏延は魏に投降なんてしておらず、南に帰って楊儀を討った」と説明している。また、反乱に関しても冤罪であることを言っている。確かに司馬光の言う通り魏延が魏に投降する話は史料的根拠が無いので、私は同調する。司馬光は歴史家として有名だが、面白いと思った史料は価値が怪しくても採用するクセがあり歴史家としての中立性を欠いている人物。だが、魏延の評価は意外にまともだった。
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