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この記事の目次
織田信長の逸話:無神論者だった
これはややウソです。キリスト教を信仰しているルイス・フロイスからすれば無神論者のように思えたかもしれません。ですが、戦のたびに寺社に戦勝祈願を行っていたことが記録として残っております。また熱田神宮や、津島神社、織田剣神社などの縁の深い神社に対しては、熱心に支援を行っております。このあたりは宗教観の違い(一神教と多神教)でもあるでしょう。
織田信長のエピソード:占いや迷信が嫌いだった
「あらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった」という占いや迷信を嫌っていたという記述があります。これは、さきほどの話と繋がりながら、また対極のようにも思えます。そして、これは信長を語る上でかなり重要な記述だと思います。
信長は、戦に行くときに戦勝祈願をしますが、その行動の決定を占ってもらったという記録はないのです。そうです、戦勝祈願にあるのは、「自分が考え抜いた決断、それが上手くいきますように」という祈りだけです。ここから感じられるのは、かなり「理屈を重視していた」ということです。
合理的。よく信長を評するときに言われますね。それは、こんなところにも表れているのでしょう。
織田信長の逸話:是非に及ばず
信長の合理性を考えるときに外せないのがこの言葉です。
「是非に及ばず(是非もなし)」
意味合いとしては、「仕方がないことだ、諦めよう」ということになります。
これは、信長が越前の朝倉家を攻めていたときに、背後の浅井長政に突如裏切られたときに言ったとされています(『信長公記』より)。本能寺の変の際にも言ったとされていますね(同じく『信長公記』より)。これは、「そら理屈で考えたら、裏切るには一番いいときやわな」
ということ心情を表していると思われます。瞬時に、自らの立場の危うさを理解できた信長ならではの一言ではないでしょうか。一度目はからくも死を免れましたが、二度目(本能寺)では、それはかないませんでした。
織田信長の逸話:偉そうだった
「彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした」とあります。この時点で、近畿地方のほとんどを領土にしていたということもあって偉そうだったのでしょうか。ですが、ここでいう王侯とは幕府や公家などであったと思われます。そうではない武家には、一定の敬意を示していたからです。
武田信玄や上杉謙信、今川義元らとは戦いたくなかった
先ほどの話に繋がりますが、軍事に優れた人たちをきちんと評価して、尊敬していたようです。主な武将としては武田信玄や上杉謙信、今川義元などになるでしょうか。
ですので、なるべく戦わないような戦略を取っていますね(詳細は省きます)。信長が心底嫌っていたのは、持って生まれた家柄だけを頼りにして、権威を振りかざすような人たちだったことでしょう。
「そんなもん、ウチの軍の前では無力だて」という気持ちがあったように感じられます。
信長の趣味は茶の湯や鷹狩りなど
「彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩り」戦が大好きな信長でしたが、趣味もあります。その大きなものが「茶の湯」と「鷹狩り」です。お茶の世界においては、いまでも影響が色濃い「千利休」を見出したことで知られています。
また「鷹狩り」も大好きであったと記録にあります。後年に好きになったものに「相撲」があります。
「目前で身分の高い者も低い者も裸体で相撲をとらせることをはなはだ好んだ」という記述があるように、勝ち負けのわかりやすい力勝負のようなものが好きだったようです。
戦国ライターしばがきの独り言
信長の逸話は多く、どのようなものを選ぶが迷いました。ですが、なるべく信長の人間性が表れているものを選んでみたつもりです。その中で、多く採用させてもらったのが、ルイス・フロイスという外国人から見た日本という視点です。これは、第三者的でかなり公平であるように感じます。他にも多くの資料や説があるので、そちらもぜひ参照して頂ければと思います。
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