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この記事の目次
読みやすさ、は大事
筆者は個人的に、読みやすさと面白さは相互効果があると思っています。三国志演義は正史三国志よりも格段に読みやすく、とっつきやすく、だからこそ面白いのです。
「ここでどうしてそんな行動をしたのか」は歴史には記されません。ですが創作だからこそ、そこに至るまでの経緯や感情を書き、読み手が理解しやすいように伝えているのだろうと感じるのです。
受け取りやすく、形を変える
ここで例えとして北方先生の三国志を挙げさせて頂くと、桃園の誓いは出てきません。これは北方先生がいきなり出会った三人が義兄弟になることにリアリティを感じないとしたからだそうです。
また吉川三国志でもアレンジではなく、物語として書き直ししている部分が多くあります。これらの創作において大きいのは、時代や民族の価値観の違いもあるでしょう。三国志演義もまた、そういった形の変貌があったのではないかと思います。
三国志の「違う」は「たのしさ」
だからこそ、三国志演義は面白いのです。中国の歴史書が、時代を変え、国を変え、時に内容も変化して人々に受け入れられていきます。そこには色々な思いがあり、その変化にすら背景がある……そう考えるととても面白いと思うのです。
あくまで個人的な一意見ですが、前述した三国志で桃園の誓いがないことに少し残念さを感じました。それが三国志演義の創作でも、筆者はそこにリアリティを乗り越えた「輝き」を感じているからだと思います。でもそれは不満ではなく、そういった一人一人の中の三国志がある……そう考えると、違いすらも楽しくは思えないでしょうか。
三国志ライター センのひとりごと
三国志演義は面白いです。数多くの伝を一つに、一つの物語に仕上げているのは感嘆の域だと思います。しかし更に後世では、その三国志も数多くの考察や解釈がどんどん生まれつつあります。正史三国志にはいくつもの伝があったように、三国志には数多くの人の形があるのだと思うと、何だか込み上げてくるものがありますね。
参考文献:
北方三国志 吉川三国志
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