「日本の四大〇〇」とか、「〇〇の四天王」とか、「もっとも凄いと思う上位4人を選べ」みたいな話はよくありますが、戦国時代について、「最強の4武将は誰か?」となったら、皆さんはどんな名前をあげるでしょうか?
私にとって、この問いへの答えは決まっています。戦国武将たちの「誰もがなしえなかったあること」を実現させた4人ということで、私が特別に評価する人物たちがいるのです。
今回は、まずその4人の名前を並べて、最後に、なぜこの4人こそが「最強」なのかの根拠を述べさせてください。クイズのように、「なぜこの4人を選んだのだろう」と推理しながら読んでいただいても面白いかもしれません!ではまず一人目から、はじめていきましょう!
この記事の目次
一代で四国統一目前までいった男、長宗我部元親!
土佐の戦国大名、長宗我部元親については、どうも過小評価されているような気がしてなりません。この人は、たった一代で土佐国を平定したのみならず、そのまま四国統一目前までいっきに駆け抜けていきました。そのスピード成長率を、評価したいと思います。
「しょせんは四国というマイナーな土地で成り上がっていただけだ」などと失礼なことを言う人が多々いますが、とんでもない。かの藤原純友が示した通り、「四国で勢力をつけて京都を脅かす」というのは、日本史上で「あなどれない存在」になる戦略のひとつ。
そもそも織田信長にせよ豊臣秀吉にせよ、「四国の長曾我部に対してどれだけの兵力を割くべきか」の計算で多々苦慮した模様ですし、本能寺の変の遠因のひとつにも、信長が中国地方と同時に四国方面にも兵力を割こうと決断をして、京都を手薄にした経緯があります。
長宗我部元親は天下人たちにすら脅威を与える勢力を一代で築き上げた豪傑なのです!
戦国史上稀に見る「誰も文句を言えない下克上」を成し遂げた、鍋島直茂!
二人目は、鍋島直茂です。この人も長曾我部元親と似て、地方の小勢力(当時は「佐嘉」と呼ばれていた現在の佐賀県)から破格のスピード出世を成し遂げ、北九州に勢力圏を築き上げただけではなく、
豊臣秀吉の信頼を得て、「貿易港である長崎の管理役」というありがたい役目まで手に入れました。この鍋島直茂の凄いところは、もともとは竜造寺家という戦国大名の一家臣にすぎない身分でありながら、まんまとその竜造寺家を差し置いて、自分が大名になってしまったことです。
それも謀反や謀略といった手で主君を抹殺したのではなく(※多少、暗殺疑惑がもたれている件もありますが)、本人が主家である竜造寺家から何度も「鍋島直茂がいないと話がまとまらない!」と重要な局面でリーダーシップを委ねられ、そうこうしているうちにいつのまにか主家を差し置いて肥前の大名になってしまった、いわば実力だけで「みんなに認めてもらっての下克上」をやってしまった人です。
もちろん「戦国大名」ですから、ウラでは汚いことも多少はやったはずですがサラリーマン物語のような順当な出世ぶりと勢力の急成長ぶり、これまたたいした存在といえるのではないでしょうか。
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弱小大名にすぎなかった出自からの逆転人生!毛利元就!
三人目は、こちらもまた地方の小さい勢力からスタートしつつ、わずか一代でスピード出世をした毛利元就です!この人は知名度も高くファンも多いので、あまり細かい説明はしませんが、
・弱小勢力から、最終的には中国地方をほぼ統一、北九州にまで勢力を伸ばしていた
・厳島の合戦という戦国時代でも屈指の大逆転劇を指揮した
などなど、独特な魅力にあふれた傑物であります。何をおいても、出す策が次々に当たる、戦国時代最大の智将という評判が恰好いいですね!
ある意味、関ヶ原で最強だった?島津義弘!
最後は島津義弘です。
これまた地方に割拠していた戦国大名、島津家のリーダーの一人であり、勇将ぞろいの島津兄弟の中でも軍事に関しては最強かもしれない功績を誇っていました。この人の最大の魅力は、関ケ原の合戦での敵中突破でしょう。
西軍に属した島津義弘は、いろいろな理由があって本戦ではほとんど動かなかったのですが、合戦が西軍の敗北と決まるや、わずかな手勢を率いて東軍の陣中を突破し、鹿児島に帰るという、徳川家康をも驚嘆させた行動に出ます。
そんなに強いなら、なんで最初から戦わなかったのかというナゾはともかく、インパクトという点では関ヶ原で最強だったかもしれない、何やら恐ろしい人でした。
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