魏(220年~265年)の初代皇帝である曹丕は後継者をめぐって弟の曹植と政治闘争を行います。
敗北した曹植は自分を推薦した一派とともに曹丕から政治的権限を剝奪され、その後は不遇な生涯を閉じることになりました。しかし近年、曹丕と曹植の後継者争いに関して新説が提出されました。今回は曹丕・曹植の後継者争いの新説を紹介します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています
この記事の目次
曹丕・曹植の後継者問題について
曹丕の弟である曹植と彼が巻き込まれた後継者問題とはどんなものでしょうか?ここでは、一般に曹植像と後継者問題について解説します。
曹植は曹丕の同母弟です。父は曹操、母は卞太后。若い時から詩文に優れており曹操から非常に可愛がられました。さて、そんな彼も政治事件に巻き込まれます。その理由は曹操の後継者をめぐって曹丕と争ったからでした。
後継者問題は最終的に曹丕が勝利をおさめますが、敗北した曹植は一派とともに都から追われ曹丕から抑圧される不遇な人生を送ることになります。
曹植は魏の太和5年(232年)から6年(233年)にかけて上京の訴えを起こしますが、受け入れられることはなく亡くなりました。享年41歳。曹植は多くの詩を残しており、上記の内容から「悲劇の詩人」と呼ばれ日本や中国でも人気の高い人物です。
後継者は最初から曹丕だった?
近年の研究で明らかになってきましたが、後継者は最初から曹丕だったと言われています。建安16年(211年)に曹丕は五官中郎将という位を曹操から授かっています。五官中郎将は丞相に継ぐ位であることから、この時点で曹丕が事実上の後継者でした。
だが建安21年(216年)に曹操が魏王に就任すると、後継者問題は浮上してきます。それどころか曹操が後継者を立てていない内容になっているのです。しかも不思議なことにこの後継者問題はわずか1年で決着していました。
小説やマンガ、ドラマだと曹丕と曹植の後継者争いが「長期」に渡って行われたと思われますが、それは虚構であり実際は短期で決着がついていたのでした。
疑惑の書物『魏略』
陳寿が正史『三国志』を執筆する時に採用した書物に『魏略』という書物があります。曹丕・曹植の後継者争いのほとんどは、『魏略』に書かれています。『魏略』は魚豢という人物が伝聞をもとに執筆した書物。
『魏略』は評価も高く近年は研究が進んでいる書物ですが、書かれている内容はあくまで「伝聞」。現代で例えるならインターネット上の噂と一緒。史料としては気を付けなければいけません。
陳寿は『魏略』の内容をもとに正史『三国志』を執筆して、曹丕・曹植の後継者争いが存在していたように読者に印象付けていたようです。
後継者争いはウソ!?真実は・・・・・・
そもそも後継者争いは曹丕と曹操による政治的謀略と研究成果が出ています。曹操は後継者を決める時に部下たちから意見を伺いました。もちろん、他人にバレないように「密奏」・「密議」です。しかしそれが全て曹丕にバレていた形跡があります。
具体的な例を挙げると1人目は丁儀。彼は曹操から曹植を太子にしたいと相談を受けたので「いいですね」と同調します。丁儀は以前から曹丕と仲が悪かったので、おそらく仕返しに返答したのでしょう。
この時、丁儀は何も処罰されなかったのですが、曹丕は皇帝になると昔のことを持ち出して丁儀を左遷して殺害します。
2人目は楊俊。彼は曹植と親しかったのですが、どちらの派閥に所属することもしません。だが、曹操は「ここだけの話にしよう」と楊俊に後継者について尋ねます。楊俊は曹植にだけちょっぴり加点・・・・・・案の定、楊駿も曹丕が皇帝になると処罰されました。
このように曹操から尋ねられて曹植の肩を持った人は、後で曹丕から処罰を受けています。要するに後継者問題というのはウソであり、本当は曹操と曹丕による異分子排除・・・・・・つまり、政治的謀略だったのでした。
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