明かされた真実!曹丕・曹植の後継者争いは、曹操と曹丕が仕組んだ罠だった?

2020年8月8日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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kawauso編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

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後継者争いをしている曹丕と曹植

 

魏(220年~265年)の初代皇帝である曹丕(そうひ)は後継者をめぐって弟の曹植(そうしょく)と政治闘争を行います。

 

曹丕と曹植

 

敗北した曹植は自分を推薦した一派とともに曹丕から政治的権限を剝奪され、その後は不遇な生涯を閉じることになりました。しかし近年、曹丕と曹植の後継者争いに関して新説が提出されました。今回は曹丕・曹植の後継者争いの新説を紹介します。

 

※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています

 

曹丕・曹植の後継者問題について

後継者争いで喧嘩する曹丕と曹植

 

曹丕の弟である曹植と彼が巻き込まれた後継者問題とはどんなものでしょうか?ここでは、一般に曹植像と後継者問題について解説します。

 

曹丕を生む卞夫人と曹操

 

曹植は曹丕の同母弟です。父は曹操(そうそう)、母は卞(べん)太后。若い時から詩文に優れており曹操から非常に可愛がられました。さて、そんな彼も政治事件に巻き込まれます。その理由は曹操(そうそう)の後継者をめぐって曹丕と争ったからでした。

 

曹丕に喧嘩を売る曹植と楊脩

 

後継者問題は最終的に曹丕が勝利をおさめますが、敗北した曹植は一派とともに都から追われ曹丕から抑圧される不遇な人生を送ることになります。

 

曹植は軟弱ではなかった

 

曹植は魏の太和5年(232年)から6年(233年)にかけて上京の訴えを起こしますが、受け入れられることはなく亡くなりました。享年41歳。曹植は多くの詩を残しており、上記の内容から「悲劇の詩人」と呼ばれ日本や中国でも人気の高い人物です。

 

後継者は最初から曹丕だった?

魏の皇帝になる曹丕

 

近年の研究で明らかになってきましたが、後継者は最初から曹丕だったと言われています。建安16年(211年)に曹丕は五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう)という位を曹操から授かっています。五官中郎将は丞相(じょうしょう
)
に継ぐ位であることから、この時点で曹丕が事実上の後継者でした。

 

曹操

 

だが建安21年(216年)に曹操が魏王に就任すると、後継者問題は浮上してきます。それどころか曹操が後継者を立てていない内容になっているのです。しかも不思議なことにこの後継者問題はわずか1年で決着していました。

 

曹植は軟弱ではなかった

 

小説やマンガ、ドラマだと曹丕と曹植の後継者争いが「長期」に渡って行われたと思われますが、それは虚構であり実際は短期で決着がついていたのでした。

 

疑惑の書物『魏略』

魏志(魏書)_書類

 

陳寿(ちんじゅ)が正史『三国志』を執筆する時に採用した書物に『魏略(ぎりゃく
)
』という書物があります。曹丕・曹植の後継者争いのほとんどは、『魏略』に書かれています。『魏略』は魚豢(ぎょかん)という人物が伝聞をもとに執筆した書物。

 

羊コと会話で盛り上がる辛憲英 羊祜

 

『魏略』は評価も高く近年は研究が進んでいる書物ですが、書かれている内容はあくまで「伝聞」。現代で例えるならインターネット上の噂と一緒。史料としては気を付けなければいけません。

 

陳寿(晋)

 

陳寿は『魏略』の内容をもとに正史『三国志』を執筆して、曹丕・曹植の後継者争いが存在していたように読者に印象付けていたようです。

 

後継者争いはウソ!?真実は・・・・・・

曹操と曹丕

 

そもそも後継者争いは曹丕と曹操による政治的謀略と研究成果が出ています。曹操は後継者を決める時に部下たちから意見を伺いました。もちろん、他人にバレないように「密奏」・「密議」です。しかしそれが全て曹丕にバレていた形跡があります。

 

曹丕に結婚を妨害された丁儀

 

具体的な例を挙げると1人目は丁儀(ていぎ)。彼は曹操から曹植を太子にしたいと相談を受けたので「いいですね」と同調します。丁儀は以前から曹丕と仲が悪かったので、おそらく仕返しに返答したのでしょう。

 

皇帝に就任した曹丕

 

この時、丁儀は何も処罰されなかったのですが、曹丕は皇帝になると昔のことを持ち出して丁儀を左遷して殺害します。

 

楊俊

 

2人目は楊俊(ようしゅん)。彼は曹植と親しかったのですが、どちらの派閥に所属することもしません。だが、曹操は「ここだけの話にしよう」と楊俊に後継者について尋ねます。楊俊は曹植にだけちょっぴり加点・・・・・・案の定、楊駿も曹丕が皇帝になると処罰されました。

 

部下をいじめる曹丕

 

このように曹操から尋ねられて曹植の肩を持った人は、後で曹丕から処罰を受けています。要するに後継者問題というのはウソであり、本当は曹操と曹丕による異分子排除・・・・・・つまり、政治的謀略だったのでした。

賈詡の大人の対応(1)

賈詡

 

もちろんこの政治的謀略に気付いた人もいます。それは賈詡(かく)です。彼は董卓(とうたく)・李傕(りかく)・張繍(ちょうしゅう)など多くの主君に仕えた人物でした。

 

賈詡

 

賈詡は策略に長けた人物であり、また曹操の挙兵当時からの部下でもありません。つまり、外様です。賈詡は危険から身を守るために普段から他人と私的な交際はせずにインドアな生活を送っていました。

 

賈詡

 

ところが、そんな時に曹丕が使者を寄越して「どうすれば曹植と後継者争いに勝てますか?」と尋ねてきます。危ない話を持って来られたので、賈詡はどっちの味方もしたくありません。そこで「曹丕様は謙虚な行いを実践されてください」と子供でも分かる返答をします。誰の味方もしない。まさに大人の対応でした。

 

賈詡の大人の対応(2)

賈詡

 

しかし賈詡はまたもや捕まります。今度は曹操に「ここだけの話にしよう」と呼び出されます。

 

曹操に重宝される賈ク

 

曹操は早速、曹丕と曹植の件について尋ねますが賈詡は何もしゃべりません。曹操は「君と話しているのにどうして何も答えてくれないんだ?」と尋ねました。

 

賈詡は「ちょうど考え事をしており、答えなかっただけです」とコメント。曹操は何を考えていたのか尋ねました。

 

袁紹、袁尚、袁譚

 

すると賈詡は「袁紹と劉表のことを考えていたのです」と答えます。袁紹(えんしょう)と劉表(りゅうひょう)は嫡子を後継ぎにしなかったことから、死後にお家騒動が起きて滅びました。

 

魏の皇帝になった曹丕

 

賈詡は、はっきりと「後継者は曹丕です」と言いませんが、曹操に自分の気持ちを伝えました。もちろんこれは、曹丕に味方するのが目的ではなく、あくまで自分の身を守るためです。

 

崔琰の対応

崔琰(サイエン)

 

賈詡の他にも曹操・曹丕の謀略に気付いていた人はいたようです。崔琰(さいえん)でした。彼も曹操挙兵当時からのメンバーではなく、元・袁紹配下です。それどころか崔琰の姪は曹植の妻だったので、彼は政治的に非常に不利な立場でした。下手なことを言えば絶対に一族抹殺は免れません。

 

漢兵士を辞めて学問に目覚めた崔琰(サイエン)

 

そこで崔琰は自分の命をかけて曹丕を後継者にすることを推薦。曹操の機嫌をとりました。中国で大事にされるのは祖先祭祀です。血統が絶えて祖先祭祀が出来なくなるのは中国人にとって1番無念なことでした。崔琰は曹植との私的な交流よりも一族の存続を優先したのでした。

 

曹植に優しかった曹丕!?

曹植を暗殺しようとした曹丕を止める卞皇后

 

『三国志演義』の影響のためか、曹丕は曹植に対して冷酷という印象があります。しかし史料を読むと曹丕は曹植を世話していた形跡があったのでした。

 

曹丕

 

確かに曹丕は即位当時、曹植を殺そうとして、母の卞太后に止められます。だが、それは曹植が酒に酔って使者に対して傲慢な振る舞いをしたのが原因。曹丕が下した判断は問題ありません。曹植はこの件により臨菑侯から甄城侯(しんじょうこう)になりました。

 

酒におぼれてしまった曹植

 

曹植はその後、様々なところを転々としたことから悲劇の詩人と言われます。ところが、曹植が与えられた待遇について調べると不審な点があるのでした。

 

黄初2年(221年):甄城侯(しんじょうこう)(領地:2000戸?)

↓

同3年(222年):甄城王(しんじょうおう)(領地:2500戸)

↓

同4年(223年):雍丘王(ようきゅうおう)(領地:3000戸)

↓

太和元年(227年):浚儀王(しゅんぎおう)(領地:3000戸)

↓

太和2年(228年):雍丘王(ようきゅうおう)(領地:3000戸)

↓

太和3年(229年):東阿王(とうあおう)(領地:3000戸)

↓

太和6年(233年):陳王(ちんおう)(領地:3500戸)

 

上記の図のように曹植は亡くなるまで「侯」から「王」に昇格したり、領地も増やしてもらっています。一般に知られているような悪い待遇にあっていたわけではありません。

 

曹叡

 

つまり曹丕は冷酷な兄ではなく、亡くなるまでしっかりと弟の面倒を見続けた優しい兄だったのです。曹丕の死後、曹植の面倒をみることは曹丕の息子の曹叡(そうえい)にも引き継がれます。曹叡も曹植が亡くなるまで、きっちりと役目を果たしたのでした。

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

先日、久しぶりにYOUTUBEで「趙雲が出世出来たのは劉備が亡くなってから?」を見てみると、コメント欄が大量にあふれていました。

 

 

半年以上見ていなかったので随分と様々な意見がありました。しかも視聴者同士で意見を交換したりもしているのが面白い。私が望んでいるような場ですね。皆さんが楽しんで意見交換が出来るように、もっと面白い記事を書いていきます。

 

※参考文献

・津田資久「『魏志』の帝室衰亡叙述に見える陳寿の政治意識」(『東洋学報』84-4 2003年)

・津田資久「曹魏至親諸王攷-『魏志』陳思王植伝の再検討を中心としてー」(『史朋』38 2005年)

 

※はじめての三国志では、コメント欄を解放しています。この記事以外のことでも、何か気になることがあったら気軽にコメントしてください。お答え出来る範囲でしたら回答いたします。

 

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曹操孟徳

 

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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