明智光秀の評価を検証します。一般的には本能寺の変で、主君信長を殺害した謀反人としてその名が知られる明智光秀。
しかし2020年の大河ドラマで主役を張るなど、近年は光秀に対する評価もずいぶん変わりました。ここでは光秀の生涯を確認しながら、その評価について改めて確認して行きます。
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青年期の光秀
明智光秀の出自について記録がほとんど残っておりません。生誕年については、1528年とか1516年などはっきりしていません。一般的には、清和源氏の流れを汲む土岐氏の支流・明智氏で、現在の岐阜県可児市を拠点としていた勢力でした。
父の名は光綱とされ、本家の土岐氏に代って美濃を実効支配した斉藤道三に仕えています。
幼少期は明智城で過ごしました。光綱が若くして亡くなったため、後見人として叔父の光安が城主を務めます。
やがて道三とその子・義龍の親子が争い、敗れた道三側についていたため、明智城を義龍が攻撃。これによって城は落とされ、一族が離散します。その際に脱出を試みた光秀に、光安の子・秀満を託したとも伝わります。
その後放浪を続けた光秀は、一般的な説として越前の大名朝倉義景を頼りました。
但し諸説あり。その中のひとつとして、室町幕府13代将軍足利義輝の幕臣・細川藤孝に仕えたという説も存在します。また光秀は若き頃に医学的な知識を手に入れました。その内容を語ったものを、人伝いに聞いたものを記録した書が残っています。それは米田求政が、したためた写本「米田文書」です。
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朝倉・足利義昭の家臣
一般的に光秀は越前の義景を頼り、10年近く過ごしたと言われています。実際に義景からは500貫の土地を与えたとする記録が残っています。しかし、正式な家臣でというわけはなく、朝倉家家臣としての働きの記録も残っていません。これは越前にいたとされる、土岐一族の親戚縁者を頼って光秀が越前に来て滞在していただけという説。これはいわゆる「食客」のような立場とも、あるいは前述した通り、光秀が医学知識を持っていたことから、医者として生計を立てていたというものです。
いずれにせよ義景の元で何らかの役職にはついていませんでした。やがて1565(永禄8)年に13代将軍・義輝が、三好三人衆と松永久秀により殺害されると、弟の義昭は最初に若狭、次に越前を頼ります。
ここで光秀と義昭との接点が生まれました。義景の元に身を置きながら、義昭の幕臣として振る舞うようになります。義昭は一緒に京に上って、三好三人衆らを追い出す大名を探していました。しかし義景は前将軍の弟ということで義昭を厚遇しますが、京を攻める気がありません。
このとき、光秀が義昭に「義景でなく織田信長を頼った方が良い」と。勧めたとされます。そこで義昭は1568年7月に信長が美濃を平定したことで、将軍になるために手を貸してほしいと要請。その使者として信長の元を訪ねたのが光秀です。
織田信長との出会い
義昭による信長の正式な使者は、義輝時代からの幕臣で、義昭と共にしていた細川藤孝でした。しかし実質的な仲介役として光秀が動いたという記録が残っています。一説には光秀の叔母が斉藤道三の夫人とされ、それは信長の正室・濃姫の母親であったとも。つまり従兄妹という関係があったことが、その役目を果たし得たとされます。
光秀が藤孝に仕える「中間」だったという説もあるため、藤孝の下の立場で動いたとも考えられます。いずれにせよ信長は、義昭と共に京を目指すことを決意。これも諸説ありますが、一般的に信長はこのときに光秀を家臣にしたとも言われます。つまり光秀は、幕臣でありながら信長の家臣という両属状態。朝倉家と同じ500貫で信長に召し抱えられましたが、その立場は部下の無い家臣とも言われています。
そして1568(永禄11)年10月に、義昭ら幕臣とともに織田軍が京都に入京。14代将軍義栄や三好三人衆らを追放します。ここに義昭が室町幕府15代将軍になりました。信長は光秀らを残し、一旦岐阜に戻ります。翌年1月にかけて、三好三人衆の逆襲が始まり、義昭が滞在していた本圀寺を襲撃。このときに幕府側の一員として明智光秀が奮戦し、これを退けています。
幕臣・信長直臣としての活躍
本圀寺の変で三好勢を追い払った後、信長が再び上洛。光秀は木下(羽柴)秀吉ら織田家の家臣と共に、京都奉行の職務を務めます。この年の10月に義昭と信長が対立する事件が発生。信長は義昭の権限を規制する殿中御掟を通告します。このときの宛先は、光秀と朝山日乗になっています。
義昭が承諾したため信長が上洛。このときは朝廷から直接天下静謐執行権が与えられております。いわば信長は将軍の家臣ではなく、距離を置いた対等の立場となっていました。その後、信長に敵対する相手との戦いに光秀が活躍。
代表的なものとして、金ヶ崎の戦いがあります。これは信長の上洛命令を無視した朝倉討伐を行おうと、越前に兵を向けたところ、突如同盟を住んでいた北近江の浅井が裏切り、織田軍の背後をついて攻めてきました。ここからの撤退時に殿として、秀吉とともに務めあげ、防戦に成功しました。このほか若狭への出兵も行っています。
こうして光秀は織田軍の一員として戦いに出る一方、幕臣としての立場も保持。義昭から山城国久世荘の所領を与えられています。その一方で信長からは大津の宇佐山城を任されます。ちなみにこの城は、初めて築城に石垣を使いました。
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