【麒麟がくる】明智光安はどんな人?本当に平和主義者だったの?

2020年1月25日


 

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明智光安(麒麟がくる)

 

2020年NHK大河ドラマ麒麟(きりん)がくるの主人公、明智光秀(あけちみつひで)、その光秀の叔父として美濃明智荘(みのあけちそう)を守っているのが、西村まさ彦演じる明智光安(あけちみつやす)です。ドラマにおいては光安は、野心を持たず明智荘を守り抜く事しか念頭にない平和主義者とされていますが、それは本当なのでしょうか?

※今回は美濃国諸旧記(みののくにしょきゅうき)に準じて解説しています。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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兄明智光綱の急死を受けて明智荘を継ぐ

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

明智光安は、現在の可児市北東部(かにしほくとうぶ)から御嵩町西部(みかさまちせいぶ)一帯に広がっていた明智荘を支配していた明智光継(あけちみつつぐ)の三男として生まれました。父の明智光継の隠居後、兄である明智光綱が家督を継ぎ、この光綱の子として誕生したのが明智光秀です。

そんなわけで、兄を支える立場になった光安ですが、兄であり明智荘の当主であった光綱が早くに亡くなります。その頃、光秀はまだ幼少であり、明智一族をまとめる事が出来ないので、明智光安が後見人となり、明智一族を率いる事になります。光秀は叔父光安の庇護の下で、武者修行に励んだと伝えられます。

 



姉小見の方を斎藤道三に娶らせ関係強化

斎藤道三

 

明智光安は、平和主義者だけあり、美濃において権力が移り変わる事に敏感でした。
その頃、美濃では守護の土岐頼芸(ときよりなり)の力が衰え、守護代の斎藤道三の力が強まっていました。そこで、光安は姉の小見(おみ)の方を斎藤道三の正室として嫁がせ、関係強化を図ります。光安の見立ては的中していて、道三は土岐頼芸を追放する下克上を達成しました。

しかも、小見の方は懐妊し、道三の娘である帰蝶を産みます。

斎藤道三の娘・帰蝶

 

この帰蝶は、後に織田信長に嫁ぐ事になりますが、光秀と信長の縁もこの帰蝶で繋がっているという説もあります。また、光秀も叔母が道三の側室である事から、一族として稲葉山城にも出入りしていたかも知れません。美濃国諸旧記には、道三の言葉として、

 

明智の家を、一方の楯ともなすの心なれば、

幕末 魏呉蜀 書物

 

と記しています。

つまり明智一族を自分は頼みにしていると書いているので、それが本当であれば次の当主になる光秀と道三が懇意で、光秀が道三の薫陶を受けたとしても不思議はないように感じます。

 

麒麟がきた

 

道三と義龍が対立、板挟みになる光安

斎藤義龍(麒麟がくる)

 

しかし、明智氏の平穏(へいおん)な日々にも終わりがきました。斎藤道三と後継者である斎藤義龍(さいとうよしたつ)の関係が悪化し、弘治元年(1555年)冬、ついに義龍は、道三に(そむ)いて挙兵します。美濃の国人衆は、道三につくか義龍に付くかで二分されますが、道三は強引な統治手法と主君の土岐頼芸を追放した事で、美濃国人の支持を失い、多くの国人が義龍につきました。ところが、ここで光安の平和主義が災いします。

 

「道三には楯と頼られた恩義があり、また、父の無道に怒って挙兵した義龍にも義がある」として、光安は、どちらを切る事も出来ず中立という態度を取ってしまったのです。

三国志のモブ 反乱

 

結局、戦いは義龍が圧勝、道三は長良川の戦いで戦死します。

当時、父子(おやこ)で合戦になった場合、子は父を生け捕りにして国外に追放するのが普通でしたが、義龍は躊躇(ためら)いなく殺しているので、余程の恨みだったのでしょう。

 

明智城陥落 光安は光秀を逃がす

明智光秀

 

毒を喰らわば皿まで、父殺しを為した義龍には道三についた勢力や日和見(ひよりみ)をしていた勢力に対する容赦はなく、弘治二年9月、義龍の軍勢は明智城に攻め寄せました。明智光安は、一族を結集して800人で城を守りますが、多勢に無勢、落城は避けられない状況になります。

明智光安は自害して果てる前に、若き光秀に対して「落ちて存命なし、明智の家名を立てられ(そうら)へ」と、家の再興を託します。

藤田行政(藤田伝吾)麒麟がくる

 

美濃国諸旧記では、明智城落城時に籠城に加わった家臣には、溝尾庄左衛門(みぞおしょうざえもん)三宅式部之助(みやけしきぶのすけ)藤田藤次郎(ふじたとうじろう)可児才右衛門(かにさいえもん)肥田玄蕃(ひだげんば)という面々がいたとされます。

史実でも、明智光秀が本能寺の変を打ち明けた重臣に、藤田伝五(ふじたでんご)溝尾庄兵衛(みぞおしょうべえ)という名前や、明智秀満(あけちひでみつ)明智光忠(あけちみつただ)という同族の名が見受けられ、この時光秀と共に落ち延びた人々か、その子供の代が光秀に仕えた可能性もあります。

明智秀満は、明智光安の子で、明智光忠は光秀の従兄弟と伝えられるので、光安は自刃する前に、我が子を光秀に託した可能性もありますね。

 

麒麟がくるの明智光安

麒麟を求める農民たち

 

麒麟がくるの明智光安は、平和主義が行き過ぎて、領地である明智荘さえ守れればいいという願いから、長いモノにはまかれよの事なかれ主義になっています。成り上がり者で強欲な主君、斎藤利政(さいとうとしまさ)(道三)に内心では辟易(へきえき)しながら、表面上はヘコヘコする中間管理職の役回りです。甥の光秀が道三にも遠慮なく思った事をいうのに、毎回、や冷やし、胃が痛い思いをしながらも、その器を(うらや)ましくも微笑(ほほえ)ましく思う一面もあります。

明智光秀(麒麟がくる)

 

ただ、光安は決して命を惜しんで臆病になるような卑怯者ではなく、明智荘が危機に瀕した時には一命を投げうって、これを守るという信念を持った武士として描かれます。光秀に比べると、かなり情けないですが、兄から受け継いだ明智荘を非力なりに必死で守ろうとする点には共感が持てます。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

以上、今回は美濃国諸旧記を元に、明智光安の生涯を解説してみましたが、こちらの史料は江戸時代の寛永年間に書かれたもので、本能寺の変から数えても60年以上が経過してから書かれたもので、さらには誰が書いたのか分かっていません。

例えば、明智城落城は同時代の史料には出てこない事から、実際にあったかどうか、現在でも議論があり結論が出ていませんし、斎藤道三についても、父子二代ではなく一代で国盗りを成し遂げたと書いてあるなど、信憑性が弱い点もいくつもあります。

ただ、物語である為、よくまとめられていて、読みやすくもあるので今回採用しました。

テレビを視聴するkawauso編集長

 

逆に言うと、このような後代の史料を援用しないと、明智光安という人物は謎だらけで物語に絡める事も難しくなると思います。

今回の麒麟がくるも、美濃国諸旧記をベースに明智光安を描いているようですので、どこが同じで、どこでアレンジが加えられているのか比べてみるのも面白いでしょう。

 

参考資料:美濃国諸旧記

 

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麒麟がくる

 

 

 

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