太原雪斎は戦国時代中期の人物で今川義元の参謀です。現役の坊主でもあるので黒衣の宰相と呼ばれました。お坊さんと言うと、戦争も殺し合いもNoの博愛主義者というイメージですが、戦国時代の坊主はパワフルであり、御仏がどうこうというより自ら動いて状況を変える人が多くいます。
太原雪斎もそんなパワフル坊主で、今川義元を補佐し外交でも軍事でも今川家の最盛期に貢献していました。今回はそんな太原雪斎の事をガンガン解説していきます。
この記事の目次
明応5年(1496年)駿河庵原で武士の子として生まれる
太原雪斎(崇孚)は、明応5年(1496年)駿河今川氏の家臣で駿河国庵原城主だった庵原政盛と興津横山城主、興津正信の娘の長男として産まれます。
父の政盛は現在の静岡市清水区にあたる駿河庵原を支配していた一族であり、母の興津氏は駿河庵原郡にある横山城を本拠地に海運を掌握し水軍を率いていたそうです。雪斎が経済にも明るいのは、海運をやっていた母方の影響かも知れませんね。
さて、本来なら嫡男の雪斎は家督を継ぐので仏門に入りそうもないのですが、どんな事情があったのか永正6年(1509年)14歳の頃、雪斎は剃髪して駿河富士山麓にある善得院に入ります。その頃名前を九英承菊と名乗っていたそうです。
雪斎は、後年、今川氏親の仕官の誘いも2度も断ったそうなので、元々武士より僧侶の世界にあこがれがあったかも知れず、出家は当人の意志の可能性もありますね。しかし、雪斎が善得院に入ったのは、長い目で見れば天の配剤というべき出来事でした。
善得院で後の主君今川義元に出会う
さて、善得院で修行する事14年後、大永3年(1523年)寺に今川氏親の3男である芳菊丸が入ってきます。後の今川義元です。
当初、芳菊丸の世話は当初、雪斎の師である琴渓承舜がしていましたが、享禄2年(1529年)に琴渓承舜が死去、そのままスライドして雪斎が芳菊丸の世話をする事になりました。雪斎と義元には14歳の年の差がありましたが、馬が合ったのか親しくなり二度も上洛して建仁寺や妙心寺で共に修行しています。
坊主としての雪斎は優秀で、それを伝え聞いた今川氏親が是非、今川家で召し抱えたいと言ってきましたが、雪斎は坊主でいたかったのか2度もあった誘いを断り、修行に励んだそうです。
花倉の乱勃発
しかし、2人のボーズライフを戦国の神は許してくれませんでした。
大永6年(1526年)義元の父、今川氏親が死去、義元と雪斎は駿河に帰り、一時善得院に入ります。今川家の家督は義元の兄の今川氏輝が継ぎましたが、その氏輝は寿命に恵まれず天文5年(1536年)に死去、さらに次弟の彦五郎も死去しました。
氏輝には後継ぎがなく、氏親正室の寿桂尼や重臣、太原雪斎は栴岳承芳と名乗っていた義元を還俗(俗人に戻る事)させて家督を継がせようとします。
今川家は足利将軍家から義の一文字を貰い、さらに氏輝時代には険悪だった甲斐武田氏と和睦するなど義元の家督相続のお膳立てを進めますが、今川家の有力な被官で甲斐方面の外交や軍事を司っていた福島氏が反対し、氏親の側室の子で自分の外戚にあたる玄広恵探を推して譲りませんでした。
こうして勃発したのが家督相続争い花倉の乱です。
雪斎、玄広恵探を討ち義元に家督を継がせる
寿桂尼は恵探派の福島越前守と面会して説得を試みるものの、失敗します。
こうして、恵探派は久能城で挙兵し駿河府中の今川館を襲撃しますが、守りが固い為に襲撃は失敗します。すると、恵探派は方ノ上城、花倉城を拠点に抵抗、遠江などで同調するものも出現しました。
そこで義元は相模の後北条氏の支援を得て、岡部親綱が方ノ上城を攻撃し落城。次いで恵探の籠城する花倉城を一斉に攻め立てます。
この時、雪斎は今川軍を率いて花倉城を落城させ、さらに逃げた恵探を瀬戸谷の普門寺で自害させました。恵探が死んだ事で遠江の戦闘も終結します。今川義元は、雪斎の働きを高く評価し、軍事・外交の両面で全幅の信頼を寄せたのです。
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