正史三国志には、伝が立っている曹操や劉備、孔明のようなメジャー武将以外にも、ある部分に僅か1回名前が見えるだけという人物もいます。
そういう人も含めると、三国志には何千という人物が記録されている事になりますが、最近、正史三国志をペラペラめくっていると、牽招伝に見た事ない人名が、、
文帝が践祚(即位)すると、牽招は排されて使持節、護鮮卑校尉とされ、昌平(北京市)に駐屯した。
この時、辺民は山沼に流散し、又は亡命反抗して鮮卑の中にあり、そうした場所は千を単位として数えた。
牽招は、広く恩信を布き、投降する者が増えるように仕向けた。
建義中郎将公孫集らは部曲を率将してみな各々命に帰し本部に還らせた。
ちょっと待って!建義中郎将公孫集って誰!!
検索しても名前も経歴も出てこないけど、公孫瓚の一族、それとも遼東公孫氏?鮮卑族の中に紛れていたみたいだけど、
中郎将の地位を持つからには、公孫集さん、きっとそれなりの地位にあった武人に違いない。
もしかして、公孫瓚が袁紹に滅ぼされた後も、袁紹にも曹操にも従わずに徹底抗戦していた、三国志版の小野田少尉みたいなものだろうか?
公孫瓚が滅亡して21年、年老いるまで戦い続けて限界を感じ「恥ずかしながら帰って参りました」って牽招に降伏してたら面白い
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