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この記事の目次
友人李陵を庇い宮刑に処せられる
司馬遷が史記を執筆しだした頃は、前漢が西域征伐に取り掛かり始めた年でもありました。
武帝の寵妃の兄、李広利による遠征により西域にかたがつくと、武帝は次に匈奴に目をつけ服従を迫ります。当初、匈奴王は漢に従順な態度を見せましたが、すぐに高慢な態度に代わり、天漢2年に武帝は派兵を決断します。
ところが、ここで李陵と言う将軍が、その前に単独行動を願い出たので、武帝は配下5000を与え情報収集にあたらせます。
ところが情報収集の途中に匈奴の3万の軍勢と遭遇し包囲され、李陵は激しい戦いを繰り返しながら退却しますが、ついに降伏しました。
武帝は李陵の降伏に激怒、単独行動を願い出ながら、敗れたら臆病にも降伏とは武人の風上にもおけぬと臣下に処分すべきかと尋ねます。
すでにイエスマンだらけの宮廷の文官は、口々に李陵を処罰すべきと言い募りますが、この中で李陵と交流があった司馬遷だけが反対したのです。
「お待ちください!李陵は人格高潔で我が身を顧みずに国に尽くす国士であります。
僅か5000の兵力で適地深く侵入して奮戦し、多大な損害を与えたのは過去の名将といえど及ばない武勲です。
投降した事とて、ここで死ぬのは容易くとも、なお生きて漢に戻り、忠誠を尽くしたいと考えたが故でしょう。
それを、ただ一度の敗北で処分するなど余りにも料簡が狭いと思います。」
ですが、司馬遷の弁護は逆効果でした。
この戦いには、武帝お気に入りの李広利も従軍していましたが、彼は匈奴戦では手柄が少なく李広利が李陵を救援していれば、李陵は匈奴に捕まらなかったと非難しているように聞こえたのです。
武帝は激怒して司馬遷の官位を剥奪、その後、李陵が匈奴兵に軍事訓練を施している等という誤報も流れて、増々怒った武帝は李陵の一族を皆殺しにし、司馬遷にも死刑を命じます。
高官でも資産がない司馬遷は、役人に賄賂を贈って罪を軽くする事も出来ず、彼の友人も誰一人司馬遷を救おうとはしませんでした。当時、死刑を免れる方法は一つだけありました。
宮刑を受け去勢して宦官になる事で、これにより子孫が途絶えるので死刑並みの刑として扱われていたのです。
司馬遷は、宮刑の屈辱に耐えられず自害を選ぼうとしました。しかし、父から受け継いだ史記の編纂の歴史的使命の重さを考えると、どうしても死ぬ事が出来なかったのです。
(人の営みの気高さと、果てしない愚かさを私は後世に残そう、私は若き日に公の為に命を投げ出すと誓った。個人の不幸など、どうという事もない)
司馬遷は宮刑を受け入れ、残りの生涯を史記完成に捧げる事を誓ったのです。
史記を書き上げ、その生涯を閉じる
宮刑を受けて牢獄に繋がれてから4年後の太始元年(紀元前96年)大赦により司馬遷は釈放され、中書令の任が下ります。
皇帝に奏上する文書や皇帝の詔を接受する中書令は太史令よりもはるかに重要なポストでしたが、宦官が配属されるポストであり司馬遷には屈辱でした。
しかし、司馬遷はこの屈辱に耐え、それから4年後の 征和3年についに史記は完成します。史記を書き終えてから、3年から4年後、司馬遷は始元元年(紀元前86年)頃に死去、それは奇しくも武帝の崩御と同時期だったようです。
実は前漢時代のホリエモン?司馬遷の性格
さて、ここからは、史記を書き上げた司馬遷の話から離れて、その性格について書いてみようと思います。
項羽のような潔い最期を迎える人や、田横のような壮士を讃えた司馬遷。そんな司馬遷がホリエモンみたいなことを言っているよと言われると、そんな馬鹿なと思うかも知れません。
しかし、彼が著わした史記貨殖列伝には、そんな欲望肯定的な司馬遷の言葉がこれでもかと出て来ます。ちなみに貨殖とは、お金を増やすと言う意味で、つまりお金儲けに成功した人々の話という意味です。
その貨殖列伝の冒頭で、司馬遷はいきなり、こんな事を言っています。
老子は理想の統治とは、人民がそれぞれの土地に安住し、そこで出来た食べ物を食べ、
そこで織れる衣服でおしゃれし、先祖伝来の仕事に甘んじて、死ぬまで土地を出ない事だと言っている。
神代の昔は私は知らない。だが、詩や書に書かれた虞や夏の時代になれば、人の耳目は美しい物を見、美しい音を望み、舌は羊や牛の旨肉の味になれ、身は楽をして暮らす事を覚え、心は権勢を握り、富貴の身になりたいという野望で満たされている。
今のようになってから、老子の言うように全戸を巡りながら質素な暮らしこそ人の愉しみと説いて回ろうと、一体誰が本気にするものか!
こんな具合で司馬遷は老子を無効にし、質素な暮らしなんて誰も望んでない!知ってしまった愉しみはもう知らない時代に戻せないと喝破しています。
どうです?司馬遷のイメージがガラガラと崩れませんか?
国は民の生産活動に干渉するな!
さて、司馬遷は今で言うと、グローバリストのようです。簡単に言うと、国は人民の生産活動に関与せずに好きにさせておくが良い、そうすれば、自然に全国の物産は集まり消費され、民は豊かになると説きます。
そこで、農民が農業をして食い、木こりが木を伐り出して食い、職人が材料を加工して食い、
商人は、これらの物産を東から西に流して食べる。
全くこれだけで、人民は富むのであり、これは役所がそうせよと命じているだろうか?
全く違う、豊かになりたいと願う人民が自主的にやっているのだ。
したがってモノの値段が高いと、人民は買わなくなるから値が下がり、値が下がると皆が欲しがるから値が上がる。
こうして物価は自然に調整されるのである。
司馬遷は、人は豊かになりたいのだから、国はそれを阻害してはいけない。自由にさせておけば、欲望と言う「神の見えざる手」によって流通する商品は増えて、人民は次第に豊かになるのだと言いたげです。
どうですかね?
これ、かなりホリエモンっぽいと思うんですが、どっちかというと昨今受けがいいグローバリストは全部こんな感じかな・・
お金を働かせて不労所得を得るのが最上
司馬遷は、あくせく働く労働を否定してはいませんが、それが最上だとも思っていません。逆に司馬遷は2100年前に不労所得こそが最上だと言っています。
しかるにここに朝廷の俸禄もなく、爵位や領地による収入もないのに、それらと同等の生活を楽しめる者がいる、
これを素封と名付ける。
素封は、自分の住む土地を人に貸して一世帯あたり200銭を徴収している。
だから千戸の領主なら20万銭を得る事が出来、これで交際費やら饗応の経費を差し引いても、十分に生活を楽しめる。
これが庶民の農商工賈の場合には、元金1万銭があれば、年に2千銭の利益を上げられるから、資産100万銭の家ならば、年間20万銭の利益は堅い、ここから様々な税金を支払っても、残りで充分に生活を楽しめるのだ。
当時は、1万銭の金を貸すと年間利率が20%だったそうで、司馬遷はその事を言っているようです。
これは賃金労働ではなく、お金を働かせてお金に稼いでもらうという事ですね。今ならば、不動産でアパートやマンションを購入するか、株式投資やyoutuberになり、ある程度視聴者が集まれば課金制にする事で固定収入を得るようなものでしょう。
でも、これが史記を書いた人とは思えないですよね?
頭を使わない人は貧しくても自己責任
ここから司馬遷はかなり過激な事を書いています。
もし家が貧しく、親が年老い、妻子も病弱で時節、時節の先祖の祀りも出来ず、親戚知人に集って飲食被服して、世間並みの付き合いも出来ず、しかも少しも恥じないような人間がいたら、そんな人は人間扱いしなくてよい。
人間は、金が無ければ労働し、労働して得た金を貯蓄し、貯蓄した金を運用して殖やし、財産が出来たら投資して、より財産を増やして生活の安泰を願うのが常道である。
こんな文面を著名人がネットで書きこんだら、100%の炎上案件ですが、司馬遷の言葉はまだまだ止まらず、最終的にこんな事を書いています。
おしなべて庶民というモノは、相手の富が自分の10倍なら卑屈になり、百倍なら畏れ、はばかり、千倍であれば喜んでお役に立とうとし、万倍なら、その奴隷になる事さえ厭わないものである。
それは違、、!!と言いたいですが、確かに司馬遷の言う事は、2100年後の現代でも、間違っているとは言えないような気がします。みなさんもお金持ち好きでしょうし、もし大金持ちと友達になれるならなりたいでしょ?
【次のページに続きます】